もりおかだいち「蜘蛛の内部にて」について
葉leaf

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 詩人は詩を書き始めるにあたって、一つの静寂、一つの待機状態に身を置く。詩人が詩の発端をつかもうとするとき、彼の意識は詩の発端の潜在する空間に集中するので、それ以外の印象(視覚印象・聴覚印象など)は無に等しくなるのだ。詩の開闢におけるこの静寂は、それゆえ、聴覚的静寂であると同時に、視覚的静寂・体感的静寂でもある。この静寂はたいていごく短い時間であるが、詩の開闢にはたいがいこの手の静寂が付属する。
 詩の開闢に付属する静寂において、詩人は詩の発端をつかみ取ると同時に、詩の発端に襲われる。詩の発端の潜在する領域は、広く開かれている場合もあれば、一定の錯綜する領界に限定されていることもある。特にテーマもなく書き始める場合は、領域は広く開かれているが、一定のテーマに沿って書く場合には、領域はある程度限定される。
 そして詩の発端がつかみ取られるわけだが、この詩の発端からは、多種多様な可能的な詩行が次から次へと分枝して接続している。詩の発端にはいくつもの可能的な旋律が接続しているのであり、それゆえ詩の発端にはそれら可能的な旋律すべての重みがかかっているのだ。
 だが、だからといって詩の発端、つまり詩の最初の一行が、何らかの絶対的な地位にあるというわけでもない。詩の発端には静寂が先行するが、詩の途中に現れる詩行にも、同じように静寂が先行する。そして、途中の詩行についても、同じようにそれが潜在する領域というものを考えることができる。
 しかし、途中の詩行の潜在する領域は、詩の発端の潜在する領域よりも狭く限定されている。というのも、途中の詩行は先行する詩行とある程度適切に関係しなければならないからだ。音楽は、新しく音を繰り出す際に、それに先行する音たちとの関係で適切なメロディーを形成するように調整する。同じように、詩も、それ以前の詩行たちと適切な調和を保つように新しい詩行を繰り出していくのである。
 最初の詩行の潜在する領域は途中の詩行の潜在する領域よりも原則として広い。だが、この差異は質的な差異ではなく量的な差異であり、程度問題でしかない。

 さて、それぞれの詩行には、(1)静寂と、(2)詩行の潜在する領域が先行するわけだが、これらはどのように関係しているのだろうか。詩人は、詩行の潜在する領域に意識を集中させることにより、それ以外の知覚的領野に注意が向かなくなる。そのことにより、詩行の潜在する領域以外の知覚的領野が静寂に満たされるのであった。だから、静寂は、詩行の潜在する領域自体を満たすわけではなく、その外側の漠たる領域を満たすのである。
 では、詩行の潜在する領域には、静寂の支配は及ばないのだろうか。結論から言うと、詩行の潜在する領域も、静寂に満たされる。ただ、静寂の質が異なってくる。
 詩人が詩行をつかみ取ろうと模索しているとき、その模索は意識下で行われる。それゆえ、詩人は模索の最中に、模索の対象を知覚するということはない。模索の対象は、模索が成功したときに初めて意識上に現れるのである。それまでは、即ち模索の最中は、意識には模索に関する何物も現れない。その意味で、詩行の潜在する領域は静寂に支配されるのである。
 ただし、この静寂は意識上のものにすぎず、意識下では、精神が、詩行の発端をつかみとろうとせわしなく模索の運動をしている。だから、詩行の潜在する領域を支配する静寂は意識上の仮象にすぎず、意識下では精神が騒がしく運動しているのである。

 この作品は、蜘蛛の内部に関する新奇な認識を提示したものである。多層構造を持つ閃光のような認識は、読者を波状的に襲い、しかも寄せてくる波は毎回異質な輝きを放つものであり、また波が引いている間にも閃光は新たな形象として存在を続けている。 
 「蜘蛛の内部」というテーマがあらかじめ定まっているので、そこから放たれてくる詩行の可能性はおのずと限定されてくる。つまり、詩行の潜在する領域は相対的に狭くなっている。詩人はおのずと、「蜘蛛の内部」と連関する「殺戮」「糸」「魂」というモチーフに関する詩行を書くように制限されてくる。
 だが、ここからが重要なのだが、詩人にとっては、詩行の潜在する領域は、常人のそれに比べてはるかに広く豊かで、様々な遠い地点とも美しくねじれた経路により接続されている。テーマの設定により詩行の潜在する領域はある程度制限されるが、詩人の連想力や認識力・表現力は、そのような制限をはねかえすように働き、詩行の潜在する領域を拡大しているのである。
 それゆえ、この作品では、「音楽」「黙考」「独裁」「前衛」「博愛」といった、通常なら「蜘蛛の内部」とはあまり関係を持たないような語が使用されるのである。このことは、詩人の依拠する詩行の源泉が、常人に比べて豊かであることを物語っている。「蜘蛛の内部」について語るのだったら、常人はせいぜい生物学的で無機的な叙述をするのみであろう。

 それぞれの内容的なかたまりについて、それに先行する静寂の持続が長かったのか短かったのか、また、それに先行する詩行の模索が楽だったのか苦しかったのか、想像してみる。言葉として現れた詩行を玩味するのは当然のことだが、言葉として現れなかった静寂や模索の運動にも思いを馳せてみる。すると、そこには、詩人の呼吸や身体の動作、視線の動きなども詰まっているようで、詩人に一歩近づけたような気がしてくる。
 「彼の内部には・・・があって」という内容は案外すんなり出てきたかもしれないが、「殺戮の音楽と黙考」はなかなか出てこなかったかもしれない。特に「黙考」を導き出すには、比較的長い模索の運動を持続させなければならなかったかもしれない。
 詩人にとって、詩行の源泉は広く豊かであるが、その代償として、あるいはそれと比例するように、詩行の模索が、長く労を要するものとなることが多い。そして、詩行に先行する静寂は、模索が苦しければ苦しいほど、密度を増し、模索の運動に影響されて起伏を生じるようになる。模索のエネルギーが放射され、静寂を侵すからである。

 最後に内容について。「僕」は蜘蛛の糸として、蜘蛛の魂に対して緊張している。この「僕」=蜘蛛の糸は、まっすぐなものであるとは思えない。もりおかの詩行は、漢語に突き当たるたびに屈折し、わだかまり、意外な方向へと反射されていく。そのような詩行を生み出す認識の主体として、「僕」=糸は、様々な方向に折れ曲がり、ところどころでこんがらがっている。それは、蜘蛛の内部、特に蜘蛛の魂という豊かな領野に直面したときの、「僕」の必然的な反応であり、「僕」(=蜘蛛の部分)自身が豊かな複雑さを備えるまさにそのことで、蜘蛛の内部はいっそう豊かになっていく。蜘蛛の内部が複雑であることにより「僕」もまた複雑になり、「僕」が複雑になることでいっそう蜘蛛の内部が複雑になる、という循環構造がここにある。


Albatros
http://www15.plala.or.jp/sgkkn/
に載せたもの。


散文(批評随筆小説等) もりおかだいち「蜘蛛の内部にて」について Copyright 葉leaf 2007-07-26 19:49:13
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