「何故日本には詩を楽しむ人が少ないの?」
ふるる

「何故日本には詩を楽しむ人が少ないの?」と疑問に思い、思うまま書いてみました。

この世には、文字を媒体として、私達を楽しませてくれるものがたくさんあります。
歌詞のある歌やマンガやゲーム。小説や物語やエッセイ、ドキュメント、ノンフィクション。
「泣ける」「感動を呼ぶ」「興奮度大」「〜賞受賞作品」「映画化決定」「題名にインパクト大」
などがあれば、みんな買うし、読むし。
俳句や短歌などの伝統・派閥まである世界は、もうよしとして。なぜ、詩はみんな買わないし、読まないし、イマイチぱっとしないのでしょうか。
学生時代の国語の時間に、あんなにわかりやすい、美しい詩を読んだじゃありませんか。
そんなことを、詩を愛する人の集まりである現代詩フォーラムで言ってもせんないことですが。
詩はどこにあるのですか。歌詞?漫画やゲームの中にも?あるならいいです。
でも、なんかぱっとしないなあ。
「あの本読んだよ。貸して上げる」「あのCD買った?よかった?」という会話は日常的に交わされるけど、「あの詩集読んだ?いいよね〜!」というのは、なかなか成立しません。

大衆のハートをがっちりつかむような詩や詩集やマーケティングやマーケットがないという事なのでしょうか。(全部じゃん)
例えば俵万智著「サラダ記念日」のような、文学として優れていたのももちろんですが、乙女の詩心マックス時(恋をしてる、恋したことを思い出す時)を狙い撃ちな詩集。谷川俊太郎著「あなたはそこに」は記憶に新しいですが、乙女心じゃないし・・・。

そういう詩や詩集は何故、出ないのでしょうか。
もちろん詩を「ちょっとハズカシイ「ポエム」」「わけ分からん言葉の羅列」と認識しているお国柄もあるでしょう。時代の流れ、ただ単に暇がないというのもある。それとは別に、私の考えでは、
制約から解き放たれて、自由詩はここまできたけれど、自由ってすごく不自由で、自分で何でも決めなきゃならない。それが大変なあまり、もしくは詩を高みに昇らせようとマニアックに追求するあまり、詩や詩を書く人は、「大衆のハートをうんぬん」なんてものからも自由になってしまったのではないでしょうか。(ないでしょうかって、すでにいろんな人が言ってる気がするし、ちゃんと、そういうことを意識している方も沢山いるでしょうが)

いかに大衆に無視されようとも詩はなくならないし、私は難解と言われる詩も好きだけど、和泉 輪さんのおっしゃるような、トルコみたいな日常的に詩がある世界っていいなあ〜。詩を死ぬほど愛していらっしゃるあをの過程さんの苦しみも、報われると思うなあ。(失礼でしょうか)

じゃあ、どうするの?
とりあえず息子を洗脳するかな・・・・。私だって、小学生の時、詩に熱心な先生に詩の世界へ連れて行ってもらって今の「詩が好きだ〜!」っていう気持ちがあるんだし。
世界平和は家庭から。詩の大衆化(ここでいう大衆化とは、大衆に日常的に楽しまれているということです)も家庭から。かも。



散文(批評随筆小説等) 「何故日本には詩を楽しむ人が少ないの?」 Copyright ふるる 2004-05-13 22:52:22
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