職業としての詩人
和泉 輪

今の日本において「詩人」は既に職業として成立しないと言っても過言ではない。職業として成立しないとは言い換えれば需要がないということだ。

私はかつて詩人が果たしていた役割を(エモーションの供給)今はミュージシャンたちが果たしていると考える。彼等は詩人が裸足で逃げ出すほどの美しい言葉を紡ぎ、また切実な内容を訴え、世界観を提示し、そこから生じるエモーションをより効果的に伝える為に自らの声を振り絞り、さらにはメロディーさえも自分で創ってしまう。そんな素晴らしいミュージシャンを私はたくさん知っている。街を歩く若者たちに「好きな詩は何ですか?」と問えば、おそらく詩人のそれではなくミュージシャンの作詞がまず挙がってくるだろう(詩と詞の違いはあるが)最近ではむしろ歌詞のほうを重要視して歌を聴く若者が増えているくらいなのだ。

ビートルズ以降 ミュージシャンたちがエモーションの伝達に苦心し言葉とメロディーを紡いでいる間、当の詩人たちは一体何をしていたか。 現代詩? 言葉遊び? 意味の破壊?少なくともエモーションの供給という面において詩人の入り込む余地などもう残されていないのだ。(詩のボクシングなどではエモーションを重要視しているが)

誰かが言っていた「詩人の詩を読むのは詩人しかいない。閉ざされた市場だ。」という言葉を私は噛み締める。私は昔からイスタンブールに憧れ、トルコの関連書籍を調べていたことがあったのだが、その過程において非常に驚くべき記事を発見した。トルコでは一般家庭、友人同士の集まり、街の喫茶店、会社の休憩時間などで詩の朗読が日常的に行われ、もちろんそれを行っているのは詩人などではなく一般人であるというのだ。毎朝の新聞には日替わりで詩が掲載され、気に入った詩があるとそれを切り抜き友人たちの前で朗読するという。さらにその本が書かれた当時(2002)のトルコの首相エジェビット氏は詩人で、テレビでは彼の詩がよく紹介されていたというのだ。

もちろん日本と比べて国民性や国の状況などに根源的な差異があることは想像に難くない。しかし果たして それだけの理由でこの現象を、そして日本との詩に対する認識の違いを説明することができるだろうか?詩の優劣の問題は別として、少なくともトルコのほうが詩人にとって好ましい環境であることに疑う余地はあるまい。

私たちはしばしば 詩人が職業として成り立たないことを嘆く。しかし詩人を取り巻く日本の閉塞した状況は当の詩人たち自らが造り出したものであり、あまりにもエモーションの伝達をないがしろにした末の当然の結果だと言える。これはあをの過程さんがおっしゃられていることと一部重複するのだが。詩の芸術性を推し進めれば生活自体が危うくなり、その逆もまた然り。そこらへんのバランス感覚が現代日本の「詩人」を目指す詩人たちを悩ませていると言える。

    ※

本文中やたらエモーションと連呼しているが、これは辞書に記載されている意味通りではなくもっと広い意味で受け取ってほしい。(音楽用語的に)また誤解しないでほしいが、私は職業としてみた詩人について書いている。もちろん職業や名称など関係なく、ただ自分に向けてのみ書かれた詩の中にも優れたエモーションを持つものがあることは十分に承知している。しかし少なくともそれは本人の死後、もしくは予期せぬ場合に発見されるものであり(雨ニモマケズなど)生きている間に自らの意思で投稿、発表されたものに関しては、他人に伝えるべきエモーションもしくは主張、あるいはそれを誰かと共有したいという想いが作者本人の中に存在していると私は考える。

最後に。あをの過程さん

>詩人がどれだけ「よく生きる人」でありうるか、詩に関わることでどれだけ生が豊かになるか、それをもっと様々な人に伝えていくためだ。

>そして、自らがよく生きることで、一般的な詩人や詩のイメージをよりよいものにしていくこと。これが最終的に詩のために役に立つことだと思っているから。


感動しました。これこそが新しい詩人の姿なのかもしれません。


散文(批評随筆小説等) 職業としての詩人 Copyright 和泉 輪 2004-05-13 21:43:02
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