「 教室。 」
PULL.







忘れものを取りに教室に戻ると、
男がいた。
知らない男だ。
若い、
ひどく痩せた男。
クラスの誰かの彼氏だろうか?。
男はあたしに気が付くと、
声を掛けてきた。

「やあ、
 きみここの学生?。」
「はっ…はい。」
「そうか、
 そうなんだ。」
「はい。」
「もしかしたらこの春から?。」
「はい。」
「そしたら教授はあれ、
 ガチョウ?。
 まだ黒板の前で、
 クワクワやってるの?。」
「はい。」
「きみさっきから、
 はいしか言ってないね。」
「はい。」
「ほらまた。」
「はい。
 …あっ!。
 ごめんなさい!。
 あたし誰かと話すの、
 にが…て…。」

男はお腹を抱えて笑っていた。
痩せた躯に似合わない大きな笑い声が、
教室中に、
響く。

「そんなに笑わなくったって、
 いいじゃないですか。」
「ごめんごめん。
 きみがあんまり面白いから、
 ついね。」

そう言いながらも、
男はまだ笑っていた。
悪い感じの笑いではない。
からからとした心地のいい、
笑いだ。
聞いていると、
何だかこっちも、
つられておかしくなってきた。
そうしてしばらく、
知らない男とふたりで、
お腹を抱えて笑い合った。

「あたし、
 こんなに笑ったの久しぶりです。
 すごく疲れました。
 でも、
 笑うって。
 疲れるけれど、
 こんなに気持ちのいいものだったんですね。」
「ぼくもだよ。
 久しぶりにこんなに笑った。」
「本当ですか?。
 何だか、
 すごく調子がいい感じがするんですけれど。」
「ほんとほんと、
 笑ったのだって何年かぶりだよ。」
「その言い方と笑い方が、
 もっと嘘くさいです。」
「ばれたか!。」
「やっぱり!。」

目を合わせ、
あたしたちはまたからからと、
笑った。
男は笑いながら、
上着から煙草を取り出し、
それに火を付けた。
一息吸う、
ふっと吐く。

「きみは煙草は?。」
「やめました。」
「へえーえらいね。
 それっていくつの時。」
「十五の冬に、
 です。」
「へえ…。
 それはえらいね。」

男は意外そうに、
あたしを見た。

「これでも色々あるんです。」
「なるほど。」
「本当ですよ。」
「その顔と言い方が、
 本当にほんとうらしい。
 ということにしておこう。」
「何ですかそれ。」
「何だろう?。
 まあいいじゃない。
 生きてれば、
 みんな何だってあるよ。」
 
そう言うと、
男はまた煙草を一息、
吸った。
軽く煙を吐き、
教室の壁を指差した。

「あそこの壁の黄色いの、
 わかる?。」
「染み…ですか?。」
「うん染み。
 あの染みね、
 ぼくが付けた染みなんだ。」
「そう…なんですか。」
「そう。
 ぼくが付けた。」

遠く、
壁の染みを見て、
男は言う。

「きみは過去の傷とか想い出とか、
 大切に取っておく方?。」
「放っておきます。」
「どうして?。」
「そしたら、
 いつか消えて、
 癒えて…なくなるから。」
「それがどんなに悲しくても?。」
「はい。
 どんなに悲しくても。」
「そうか…そうだね。
 いつか癒えるんだね。
 みんな、」

男は遠く、
もっと遠く、
壁の染みの向こうを、
じっと見ていた。
あたしはそんな男の向こうを、
じっと、
ただ見ていた。

「あたし、
 もう行きます。
 そろそろ時間なので。」
「うん。
 そうだね。
 そろそろ時間だね。
 ありがとう。
 最後に笑えて、
 本当によかった。」
「あたしの方こそ笑え…て……。」

振り返ると、
男は、
どこにもいなかった。
吸いかけの煙草が一本、
落ちていた。
あたしはそれを拾い上げ、
一口、
吸った。
久しぶりの煙草は、
むせはしなかったけれど、
はじめての時よりも慣れていて、
全然罪っぽくなかった。

教室の壁の黄色い血の染みが、
うすく、
癒えている。

忘れ者はもう、
いなかった。












           了。



自由詩 「 教室。 」 Copyright PULL. 2007-06-16 15:13:41
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