谷川俊太郎氏への手紙 〜名詩を読む①〜 
服部 剛

  谷川俊太郎様 

 今僕は、ショパンを聞きながら手元にある詩集を開き、「ネロ」
という詩を再び読もうとしています。もし、人の心からいつまでも
消えることの無い詩があるならば、今から五十年以上前に書かれた
この詩の中にいる一人の青年がその答を教えてくれる気がします。 


  
ネロ ー愛された小さな犬にー 
               谷川俊太郎        

  ネロ 
  もうじき又夏がやってくる 
  お前の舌 
  お前の眼 
  お前の昼寝姿が 
  今はっきりと僕の前によみがえる 

  お前はたった二回程夏を知っただけだった 
  僕はもう十八回の夏を知っている 
  そして今僕は 
  自分のや又自分のでない 
  いろいろの夏を思い出している 
  メゾンラフィットの夏 
  淀の夏 
  ウィリアムスパーク橋の夏 
  オランの夏 
  そして僕は考える 
  人間はいったい 
  もう何回位の夏を知っているのだろうと 

  ネロ 
  もうじき又夏がやってくる 
  しかしそれはお前のいた夏ではない 
  又別の夏 
  全く別の夏なのだ 

  新しい夏がやってくる 
  そして新しいいろいろのことを 
  僕は知ってゆく 
  美しいこと 
  みにくいこと 
  僕を元気づけてくれるようなこと 
  僕をかなしくするようなこと 
  そして僕は質問する 
  いったい何だろう 
  いったい何故だろう 
  いったいどうするべきなのだろうと 

  ネロ 
  お前は死んだ 
  誰にも知れないように 
  ひとりで遠くへ行って 
  お前の声 
  お前の感触 
  お前の気持までもが 
  今はっきりと僕の前によみがえる 

  しかしネロ 
  もうじき又夏がやってくる 
  新しい無限に広い夏がやってくる 
  そして
  僕はやっぱり歩いてゆくだろう 
  新しい夏をむかえ
  秋をむかえ 
  冬をむかえ 
  春をむかえ 
  更に新しい夏を期待して 
  すべての新しいことを知るために 
  そして 
  すべての僕の質問に自ら答えるために
 


 このような素晴らしい詩を読むと、どんなに時が流れても、人の 
心には消えない想い出があると感じます。小犬に舐められた舌の感
触、自分をみつめる潤んだ瞳、寂しく飼い主を呼び求める鳴声・・
・・・(たった二回の夏)を知っただけで世を去った子犬と、もう
数を忘れるほど毎年巡る夏を過ごしてきた自分・・・・・読者とし
てこの詩を読む僕自身も、無表情に過ぎゆく年月の中で「一体何を
してきたのだろう・・・」と、ふと立ち止まることがあります。こ
の詩の中に描かれた(僕)もまた、亡くなった子犬と過ごした時間
が記憶から薄れてゆく中で、やがて様々な経験をする最中で立ち止
まり、喜びと哀しみで織り成される人生の謎に対して(いったい何
故だろう どうするべきなのだろう)と、言葉にならぬ想いを問い 
かける。その時、もうこの世にはいないあの子犬の姿が・・・(お
前の声 お前の感触 お前の気持までもが 今はっきりと僕の前によ 
みがえる)・・・この五連目を読むと、作者の心の中に「あの日の 
ネロ」が今も尚生きていると感じます。「立ち止まっていた僕」に
再び夏はやって来る。そして、今は亡き子犬に(僕はやっぱり歩い
てゆくだろう)と決意の言葉を伝えて、(僕)はこれからも巡るい
くつもの季節へと足を踏み出す。(すべての僕の質問に自ら答える
ために)・・・。 
 尊敬する詩人である谷川俊太郎様、今年七十六歳になる貴方の胸
の中に「ネロ」はどのような姿で生きていますか・・・?この詩を
書いた時は青年だった貴方は、今頃どのような想いで満開の桜をみ
つめていますか・・・?この手紙を書いている部屋の外から、春の
空に響く、鶯の鳴声が聞こえます。 



       * 文中の詩は「続続・谷川俊太郎詩集」(思潮社)
        より引用しました。 








散文(批評随筆小説等) 谷川俊太郎氏への手紙 〜名詩を読む①〜  Copyright 服部 剛 2007-05-13 08:12:31
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