従順
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「あんた、何したん」と母が言った。
「えらい言う事きくようになってたわ」
 そのころ家で飼っていた犬は、まさに野放図というか、散歩の度に急に向きを変えて走り出したり、ヒモを引っ張っても頑としてその場から動かなかったりと、いわゆる駄犬の範疇であった。
 ところが、その日母が犬を散歩させた所、えらく従順に言う事をきくようになっていたらしい。それで、不思議に思ってその前日に散歩をさせた私に聞いてきたというわけである。
 何したんと言われても、普段は全く散歩をさせることのない私が散歩をさせるということで、コースも分からないし、ここはひとつ犬に行く先を任せることにしたのだった。それが昨晩のことである。つまり、どちらへ進もうともあえてヒモを引いたりせずに、そちらへついていくという方針である。
 出発すると早速、犬は道端の電柱や雑草を鼻でクンクンと点検しはじめる。そうしながら、えらく怪しげな方角へ進んでいく。私はそれについていく。
 その進んだ先は、地元住民の私さえめったに立ち入ったことのない、街灯も少なく森閑とした山の中を抜けている裏道であった。アスファルト舗装はされているが、随所でむきだしになった地面と路肩の境界が曖昧に放置されている。視界をさえぎって黒々と密生した樹木の群れがその下を通る者を脅かすように立ち並んでいる。
 ああ、ここは子どもの頃通ったことあるわ……私は思った。この道をまっすぐ抜けていっても普通では私が用のあるような場所には出ていかないので、存在は知っていても使うことはまずない道路である。
 さすがに、これは普段通っているコースではあるまい、と私は思った。
 道の両脇には草が生い茂っており、犬はそこへ嬉々として突っ込んでいく。付き合うにも限度があるので、茂みの外からヒモが届く一定の距離以上は踏み込ませるわけにいかない。あんまり長居が過ぎるようだと、ヒモを引いて元の道に戻す。
 途中、沼地のような大きな水溜りを回りこんで進むコースがある。何かの用水のようにも思えず、何のためにあるのか子どものころから不明な沼である。そこも通りかかってみると、至極久しぶりに訪れた感があった。そこは水の流れがどこにも通じていない澱んだ水溜りであり、平らかな水面はいつも深い緑色に濁っていた。周りは何の手入れもなく伸び放題の雑木や朽ちた倒木に囲まれており、昼であっても薄暗さを感じさせる不吉な景観であった。
 子どものころ、その沼の真ん中のあたりから気泡がぽつぽつと浮かび上がっているのを見たことがあった。そこで私は、何か得体の知れない生物の潜んでるという妄想をたくましくさせられたものだった。
 そういえば、私はその沼に沈みかけたことがあった。ある日のこと、ちょっとした気まぐれでその沼のふちにある砂浜に降りて、溜まった水の瀬戸際まで進んで水面を覗き込んでいたところ、突然足元の地面が崩落し、澱んだ水の中に引きずり込まれたのである。崩落によって、一瞬のうちに私は腰まで水中に飲み込まれた。
 その時私は一人きりで、周囲には誰ひとりいなかった。私はついに得体の知れぬ何者かに足首を掴まれて、沼の中へ引きずり込まれたと信じたので、これは完全に死んだと思った。崩落は私を腰まで水に浸したところでぴたりと止まった。自分は死んだものと信じた私は、蛇に半身を呑まれたカエルのように切ない気持ちで、その場に凍りついていた。下半身はズボンまでズブ濡れである。その後どうしたか覚えていないが、実は結構そのとき私の身は危なかったのであろうか。
 私と犬は暗い道を進んでいく。そうして進みながら、ずいぶんな距離を進んだ感じがあり、こんなに長い道のりだったかなと思う。しかし、来た道をそのまま引き返すのも何なので、その道を最後まで抜けきることにする。
 抜けきって出たのは、ああ、こんな場所もあったかなあ、と周りの景色を憶えてるような憶えてないようなぼんやりした地点である。ただの散歩にしては、ずいぶん家から離れてしまった気がする。
 ついでのこと、ここでも犬に行き先を任せてみる。犬には帰巣本能というのがあったはずだ。そこはかとなく家の方角へ戻るルートを取るのではないか、と期待もあった。
 だが犬が躊躇なく取ったのは家からさらに離れていくルートであった。そこはもう、さすがに存在すら知らない、見知らぬ家々の間を結ぶ何でもない道である。
 思えば、この犬は日頃から家で繋がれている際も、塀によじのぼって外ばかりみている犬であった。機会があれば決して逃さず脱走を図ってばかりいた。外を散歩するときにヒモが首輪から外れようものなら、猛ダッシュで走り去って視界から消えてしまう。よく河川敷とかで犬を放して遊び戯れている犬と飼い主を見かけるが、うちの犬においては考えられないことで、あれはいったいどういう仕組みで相互の信頼関係がなりたっているのやら、ついぞ私には分からないことだった。
 こいつには家から遠ざかる本能しかないのだったな。腹でも減らない限り、帰巣本能を発揮しないんである。
 さらに家から遠ざかった良くわからない地点で、さすがに是が非でも引き返す決意をした時には、私は相当疲れていた。これから同じ距離を戻らなければならないというのは、ちょっとうんざりさせられた。しかも、これまで全般に下り坂をおりてきていたので、復路はずっと上り坂である。
 私は座り込んでしばしの休憩をとり、そこでは犬も疲れたのか割とおとなしくしていた。 
 ――お前、アホじゃろう。…………
 舌を出して喘いでいる犬のツラを見ながら、私はつくづく思ったものだった。
「いくぞ、アホ」と私は立ち上がった。
 ここからは、もうわき目もふらず帰りたいのである。犬が立ち止まって電柱の匂いを嗅ぎたげにしても、ヒモを引いてずんずん進む。犬の方もとりたてて抵抗はしなかった。正直、犬の方でもこれだけ好き放題に歩かされて、遠くまで連れてこられて、少しは不安を感じたものかも知れない。
 こうして、犬にコースの選定を任せたばかりに、散歩にしては度を越してしまった遠征から、へとへとに疲れつつ何とか帰ってきたのが、その日の前の晩の話である。
 そして私がそのような散歩をさせた次の日に、母が犬を散歩させたところ、普段では考えつかないほど犬は従順に言う事をきいたのだそうである。それで疑問に感じて、母は私に聞いてきた。
「あんた、何したん」
 ここで、ようやく冒頭とつながったというわけだ。
 いかに日頃から自由を切望する野放図の犬といえど、あまり自由に任せられては、不安を感じるということなのだろうか。秩序というものがまるでない状態では、犬もそれに対する背き甲斐がないということかもしれない。
 実際のところは、その日はさすがに犬も疲れきっていたという程度のことだと私は思った。数日もたてば、元のとおりに戻ることだろう。
 何したんという母の問いには、私は「さあ、知らん」と答えた。(了)


散文(批評随筆小説等) 従順 Copyright hon 2007-05-13 02:03:53
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