「生命至上」が、普遍の価値なのか?
カスラ
養老猛司氏の『真っ赤なウソ』(大正大学出版社)を読んだ。
『バカの壁』で知られる解剖学を専門とする著者の、理系学者らしい独特でシャープなその語り口にファンも多いのかも知れない。そしてこの本の中に、どうしても考えざるを得ない記述を見つけた。
スポーツドリンクの配布がアフリカの貧困による(主に脱水による乳幼児)の死亡率を劇的に改善し、その結果、圧倒的な人口爆発が引き起こされているとある。
情報として、日本からもアフリカ各地の医療の存在しない辺境や、貧困地区にボランティアとして医療従事する多くの医師団が渡っていて困難の中、現地で尽力していることを私たちは知っている。しかし、それら医療行為の何千倍も効果的だった、あるいは統計上、より多くの命を救ったのは何と、「日本のスポーツドリンク」だったのだという。
確かに、地球レベルで環境を考え対処るのが遅すぎたのは分かっている。ガイア仮説など持ち出すまえに、それは有限の閉鎖系システムであるのだから、自ずとキャパシティは決まっている。部分、あるいは個を助けた結果、遠からず人類の滅亡の種を蒔くことになってしまうというこの話し、確かに起こり得る矛盾を語っている。
養老氏はアイロニックに、あるいは本気で、「スポーツドリンクをばらまいた国連は、まったく余計な事をした」と、堂々書いている。何と乱暴な、と人道主義者は嫌悪をあらわにし、或は心の中で人口爆発(地球環境科学)を研究する学者は、養老氏よ、よく言ってくれたと手を叩いているのかもしれない。
私たちは既に自らが、安易なヒューマニズムなるものを論する欺瞞を充分に見て、感じてきたはずではなかったか。あの、とあるテレビ局が総出で黄色いシャツを着て、芸能人にマラソン走らせたりするアレや、子供の移植手術のための公開募金で、電話が鳴る度に金額表示のカウンターはあがってゆく光景に感じた違和感ははたして何であったのか。
そもそも、「生命が宝である」、「生命こそが何より大切である」ということに、何故なっているのだろう。価値の発生は、いくつかの宗教や、古代からの感情にその源を遡ることができるかもしれないが、ふと醒めてみると、社会に、地球上に流布する「価値」のほとんどが、この「生命至上」の変形であることに気づく。間違っている、というのではない。何故、皆そう思っているのかが、よく分からない。
例えば、子供が生まれることを「おめでた」という。確かに、古代農耕社会とその国家にとって、出産とはそのまま実りをもたらすものだっただろう。「めでたい」は、おそらくその名残りなのだ。しかし、もはや出産と生産力とが直結していない現在において、何故それはただの「現象」として見られることを拒むのだろうか。
あるいは同列に「平和は尊い」、という。なるほど、イラクやアフガンへの制裁についてもあれほど映像として、またその背後にあるものを見せ付けられて、おそらくは殆どの人がそう感じているのだろう。だが戦場で不幸にも流れ弾に当たって死ぬことと、道端で工場中のマンホールに落ちて死ぬことにおいて、或る生命がそれ自身にとっては、実は同じことではないと言い切れるのだろうか。何故なら、私たちは誰ひとりとして一度も死んだ経験を持たないのだから、その価値について言うことができるのだろうか。犬死にだったか、大往生だったかは、残った者が決めていることである。どんな形でそれがやってこようと、生命にとっての死は、ただ死であり、その人の死であり、そこに社会や感情が意味を込める余地を、当の死者(不可知)はどう思うのであろうか。もしそこに余地余白が許されないとするなら、平和と生命とは守られる“ベキ”ものであるという権利宣言は、すると、いったい誰に向けられることになるのだろう。それは「この私の死だけこそ、は避けられるべきである!」と、自身を指して要求している滑稽な姿にも似ている。いくら要求したとしても、まわりの誰もその要求を叶えることはできず、「初めての、それきりの死」というこの経験は、避けようもなくその人を訪れるだろう。いつの時代も、何処ででも、そして誰にとってであれ、その事実の透明性に変わりはないはずである。このとき、「だからこそ生命は尊いのである」、と続けるならば、それはもはやひとつの「意味」以上のものではないだろう。何故なら私たちは、生命に代わる何物かを知らず、気がつけば生命であったにすぎないからだ。生まれ、そして死んでゆく生命に意味があるように見せているのは、見送る者がそれを付加するからでもある。誕生も死も、最後は他者にとっての問題であり、自身にとっては強いられた事実としてあるだけかもしれない。事実から価値は決して導き出されないというこのとき、幻想が、事実に価値なる“擬態”を許している。だから思考されることなく他者の考えを切り張りしただけの、一見全き正当でグローバルな「私の価値観」なるものは脆弱なのだ。いずれにせよ私たちには、生命と死とが、自分を透過してゆく、ただの現象であると思う(気づく)ことがなかなかに耐えがたいものとしてある。
良寛は当時、新潟で起きた大地震で多数の死者が出たときに、「死ぬ時には死ぬるがよかろふ」と言ったという。これはそのことに仏教的な、無常を言った言葉ではなかったのではないか。彼はただ事実を前にして、「それがどうした」と言ったのではなかろうか。守ろうが守るまいが、私たちはいずれ、それぞれにその生命を失うのであり、認めようが認めまいが、私たちは皆、その社会、その世界、その時代に属しているのであり、さらにどの時代のどの社会にも「死」というものが存在するのであれば、訪れる形がどうであれ、何かのせいにして、自らの死をあけわたす理由などなにものもないのだ。歴史に「もしも」は有り得ない、そしてその「状況」と「自分」とを確実に切り離すことができるなら、何かを責めることも可能だろう。しかし、「どんな状況にも置かれていない自分」とは、考えることがそもそもできないではないか。今という正にここに、それが特殊である、或は不幸である、多数の他者と比べてと想い悩む理由など本来ないし、次に生まれて来る子供たちも、それぞれにその状況を生きてゆくだろう。また、守るべき「自分」を「人類」と言い換えてもそれは同じことではないか。「人類でないもの」を知らない私たちは、自分自身の行為を価値づける規準をその外には持たない。それなら、それ自身の行為によって、また理知によって滅びへと至った人類を「悪」だと決めつけることができるのはいったい“誰”なのか。造化の神、あるいは母なる宇宙だと言えるなら、宗教はまだその力を失ってはいないこということになる。言えないならば、全地球的壊滅もまた、生命の発生と同様に、ただの物理的な現象であり、ある時ひとつのα粒子が、人知れず崩壊することに何らの「意味」がないように、やはり何ごとでもないのだろう。
意図して徹底的にニヒリズムにとられるべく書き連ねてみたが、「生きて、在る」ことを「生存」することと捉えることに異を唱えたかったまでである。
私たちの「生存」とは確かに、社会や世界に依存する。そのとき誰もが普遍の価値だとして「生命至上」を思っている。しかし、生きて在るとは、生命体として生存することだけをいうのだったか。ひっくり返して、私が在るとは、いや「私」と今発語しているこの「意識」を、脳なる物質がいかにして非物質である「意識」を生み出しているか、あるいは化学反応や電気的パルスやタンパク質や受容体の様々な物理「現象」をいかに解明していったとしても、物質は意識を架橋しないことに変わりはないだろう。
しかれば、ここに、肉体という物質として“アル”とされてきた「私」と、意識という“ナイ”かのように見られてきた「ワタシ」が、同時にしかもまったく異なる存在の仕方で存在していること気づく。
さて、この肉体という物質の私だけでなく、あらゆるすべての物質の側と、ワタシという意識を含有する宇宙をも梱包する意識と、どちらが幻想の擬態と言うべきか。
…§…