準盲目の青年
はじめ

 彼は準盲目のピアニストである
 普段は鍼灸按摩を専業としている
 ピアノだけではまだ飯を食っていけないからである
 彼は指先の感覚が鋭く マッサージ屋で人気の一人である
 夜遅くまで働いた後は杖をついてアパートに帰り共同で使っているサイレント機能の付いているグランドピアノで朝まで猛練習をする
 リストやショパン チャイコフスキーやシューマンなどをだ
 彼は準盲目でありながら国際ピアノコンクールを目指している若者だ
 点字の楽譜は汗で黒ずんでいて無数の譜めくりの為にボロボロに痛んでいる
 彼の頭の中には1000曲以上完璧に記憶されている
 アパートの大家さんは夜食とお茶をお盆に持ち扉の隙間から心配そうに見つめている
 先生には従事していなかった
 以前つけていた先生に差別と迫害を受け それ以来彼は心を閉ざしていた
 しかしある出来事で新しい先生に逢い 週に4回レッスンを受けている
 国際ピアノコンクールを目指す世界中の若者達は音楽院に入って 毎日のように先生の指導を受けている
 しかし彼にはそのような学校や音楽院や大学に入る経済力が無い 彼は孤児で孤児院で育てられたのだ 彼は固く心を閉ざしていた 彼が心を開くきっかけとなったのは 好きな(声と手の温もりの)子の弾いていたモーツァルトのメヌエットを聴いてからだ それ以来彼はピアノを独り占めしてメヌエットの練習をし 好きな子と連弾したりした しかしある日彼女はトラックにはねられて死んだ 彼はそのことを聞いて混乱し 再び心を閉ざしてピアノだけを拠り所にするようになったのだ
 彼は美青年である しかし自分のその美しい顔まで自分で見ることができない 彼はベートーベンのようにいつも絶望し 嘆き悲しんではいない しかし昔のあの子のことを思い出すと 紫色の心から涙が零れてきて鍵盤や両手に叩きつける
 彼はそうなると一心不乱にピアノを弾き続ける 彼の手は大きく 指は長く太く 腕には逞しい筋肉がついていた それもマッサージ屋で働いているおかげだった また彼には作曲の才能もあった 幼い頃の彼女への想いを曲にして幾つも幾つも作り続けた
 そして国際ピアノコンクールで 彼は大会史上初となる盲人として出場した 彼の繊細だが大胆で 緊迫感溢れる情熱的な演奏は多くの聴衆と審査員を魅了した 結果的に彼はまたもや大会史上初となる盲人として優勝した 彼の念願の夢が叶ったのだ これで鍼灸按摩を辞めてピアニストとして生きていける 彼は盛大なスタンディングオベーションに包まれながら暖かい涙を流した
 優勝後 彼は孤児院に出向いて 孤児院の先生に付き添われて彼女の墓のお参りをした 小さな墓に花束と優勝楯を供えた 鳶が 風が 草花の揺れる音が 時間の流れが 彼の耳に入ってきた 彼は両手を広げてそれらを感じながら その場を後にした


自由詩 準盲目の青年 Copyright はじめ 2007-05-10 04:01:41
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