信仰随想。宗門と南無阿弥陀佛 。 
すぬかんながぐつ。 

わたしのへやにはちいさな十字架がある。これを買うとき御店のひとに特にクリスティアンではなくてもかって部屋などにおいていいものでしょうかとお聞きしたが大丈夫だと思いますよ。といわれ購入した。値段は決断の割にはとてもやすくもうおぼえていないぐらいだ。きりすと像のほかにもかみだなも簡単なものをつまりお札とちいさなそれを入れる社のかたちをしたものもおいてある。今後は実は仏壇も置きたいとすら思っている。こんなに置くと問題があるという方もおられるだろうがいろいろ迷った結果収まったのが今のかたちになる。といってもまだ完璧には収まっていない。それでとても努力している。うちにはネコガいる。白い小さなメスねこさんだ。この子はとても毛がよく抜ける面もありいたずらっこでもあるがたまにとてもやさしいところがありわたしがげんきがないとわたしにぴたりと寄り添ってまるでたまにわたしをおなかで温
めるようにわたしの背中や手に乗っかったりする。ふわふわして温かくてとても気持ちがよかったりする。よく鳴くので大変なとこもあるがなかなか可愛い子でもある。話がずれてしまったが信仰というものは思いにとても近いものだと思う。がくしゅうでなくどちらかというとひたむきな思いに類するものだと思う。知識でもないと多分思う。そいでも聖道門(自力で悟りを求めるものの属する門。)の人はそうかもしれないがわたしの求める他力の門は違うだろう。わたしの祖母の属していた団体の人がパブテズマ・洗礼とは本来川にその身を投げ込んで(投げ込まれてかな。)浮くか試したことからくるとかいっておられたがそこまでいかなくてもかみさまに身を委ねるとはそうした意味や気持ちを伴うものであろう。そういう立場では即身成仏とかそういうことはよくわからないけれど聖道の人はそんなことも考えるのだろうか。まあそんなことはわたしにとっては全く生活にかかわる話ではないがときどきなんとなくこの人のことあまりよくわからないなあと思ったとき意外とその人とわたしは家の仏門の宗派が違ったりすることに最近気がついた。それはわたしの発見というより友だちからの発見だったがなんかそれは現代において不可思議な気がしたのだ。家の宗派の宗教的儀式などあまり行われなくなった現在でさえそんなことが根付いているのかなとなんか不思議な気分がしたのでした。 
南無阿弥陀佛 。      




散文(批評随筆小説等) 信仰随想。宗門と南無阿弥陀佛 。  Copyright すぬかんながぐつ。  2007-04-26 19:28:38
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