「わかる」ということと「リアル」について
大覚アキラ

わかったつもり、というものほどあやふやなものはないと思う。
そして、わかったつもりで何かを語ることほど、無様で格好悪いものはない。

そもそも、わかったと思っている主体である『私』自身は一体何者なのか。
それ自体がわからないじゃないか。
何者かわからない『私』が、何かをわかったつもりになる、
こんなよくわからないことが成立すること自体よくわからない。

わかっている、と『私』が思っていることのほとんど(あるいは全て)は、
誰かが「それは○○である」と言っていることであり、
その誰かでさえ、わかったつもりで言っているだけのことかもしれない。
誰かがわかったつもりで言ったことを、自分がわかったつもりで誰かに語る。
そんな、幽霊の幽霊みたいなものに、果たして説得力があるのか。

幽霊のような『私』と幽霊そのものが確実に異なるのは、
肉体というリアルを伴っているかどうかだ。
ほんとうの意味で、わかる、というのはとても肉体的な感覚であって、
そして非常に個人的で、他者と共有困難な感覚なのではないだろうか。

わかる、ということは、信じる、という感覚と非常に近しいのではないかと思う。
「百聞は一見に如かず(To see is to believe)」という言葉に表されるように、
信じるという感覚はとても肉体的なものであって、
頭で思考して納得するというような種類のものではないと思う。

つまり、肉体的な感覚として信じうるものごとに触れる体験を経ることなく、
ほんとうに人が「わかった」と感じることはないのではないだろうか。
そして、そういう感覚で捉えることができたものを人は「リアル」というのだろう。

さて、こうやってわたし自身が語っていること自体が、
わかったようなつもりで語っているわけであり、
それ自体が無様で格好悪いということについては、
わたし自身がよくわかっているつもりだ。


散文(批評随筆小説等) 「わかる」ということと「リアル」について Copyright 大覚アキラ 2007-04-26 13:48:00
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