リーフレイン

この文章は、1月の後半に書いたもので、原口さんの一連の抗議文を読んだことによる反応です。私自身は1月の半ば、一連の抗議が始まる前に既に退会していたので、個人のブログに書いておきました。もう3ヶ月も前の事件について今更感もあるのかもしれませんが、申し訳ない、再入会にあたって、投稿させてください。



私の立場は跳梁氏(ぽげ氏)に近い場所にいて見ていた傍観者である、と同時に白井氏のマイミクでもあることで、白井氏の私的な日記内で展開された議論を当初から見ていたというあたりです。 あくまで、個人の視点であって、跳梁氏の代弁でもなんでもないことを確認しておきます。

1、12月時点でのみさとさんへの批判について
自分にとってみさとさんの問題は、単純に「もう書くな」という方向へ叩きが進展したことがタブーと感じたのみで、叩きそのものは表現の自由として、ある程度ありだと考えていました。いったん人前に”表現”として出したものは、一人歩きします。ましてや詩の切磋琢磨の場であるのだから、忌憚ない意見を聞くことはなににもまして作者の糧であると考えていいかと思います、私たちはみな、詩の作者であると同時に、徒弟でしかないのですから。

2、跳梁者氏の「馬鹿はすっこんどれ」発言に関しての見解
これは白井氏のミクシ日記に書いたとおりの判断です。
以下引用します。

>佐々さん
>今回の件だけで考えますとね、もともとはみさとさんの事件から始まってたと思うんですよ。
>つまり、知る人は結構多いと思いますが、今回の「馬鹿」のターゲットはあの時にみさとさん叩きをなさってた方ですね、彼は、あの時非常に怒っていたんですよ。みさとさんの詩に対しての批評が云々という意味ではなくて、その叩きの中でみさとさんに対して「もう書くな」という発言があったためです。
>彼の本来のスタンスは
>「私は君の意見に反対だ。しかし、君が反対意見を言う権利は死んでも守る」ヴォルテール (注1
>ということではないかと思います。
>つまり、今回の自爆テロは、「俺のやってることと、あなたたちのやってたことは本質的に一緒だよ」という示威であったとあたしは解釈していました。
>極端な形であるので、彼の行為は問答無用にサイトからの排除という結果を招いていますが、
>個人的にはやはりここで、ワンクッション欲しかったかなと感じます。
>ただし、白井氏の見解とは異なり、跳梁者氏の行為そのものも、やはり掟破りであったと考えています。表現の自由の侵害に間違いはない。(とはいえ、彼の意図は そのあたりは理解しつつ、あえて、あてつけとして書いたのだろうと推測していました。)


3、白井氏のミクシで展開しかけていた、”詩の発表の場でのタブーについて” この論点は頓挫していましたが、いったいどこまで他人の作品について踏み込んでいけるか?という問いに発展していったことと思われます。 現実問題、本当に忌憚のない意見を言えるというのは実は稀なことで、それはベースにお互いへの信頼が不可欠です。つまり、?互いに忌憚のない意見を望んでいること、?忌憚のない批判であっても決してつぶれることのない強さを各人が確立していること、?詩の方向性について多様な指針がありうることを共通理解としてもっていること。  あたりが最低必要なベースではないかと考えます。 このベースがない状態での忌憚ない意見はややもすれば”排除” あるいは、”個人攻撃”という形で終わってしまう。それでは発展への道が閉ざされると同時に、場がいたづらに閉塞、固定化してしまうのではないでしょうか。
私自身は、ご存知のとおり、悪名高い2chをメインの場にしています。ですからどちらかといえば誹謗中傷に免疫があるのかもしれません。「叩き上等」が本音のスタンスです。 その上での線引きは 上に述べたように ”お前はきらいだが、お前が表現する自由は絶対に守る”という立場です。ある意味、極北の立場かもしれません。

4、人間と作品
少し長くなりますが、寺田透氏の ”現代詩におけるなからうか”を引用させてください。


現代詩に関する”なかろうか” 寺田透 14:08
 わたしがこれから書くことは現代詩のすべて、現代詩人のすべてに当て嵌まることではないだらう。 しかし別にどうしても読まなきゃならないわけがあるのではなく現代詩を読むとき、大抵いつも感ぜられ、つひ印刷された紙の束を置いてしまふ原因のひとつに当たることの多いことだ。
 それは二通りに言ひ現はされるだらう。一方の言ひ方をとれば、もうわれわれは現代詩ーそれも比較的若い方のひとびとのをー読むことでは、詩を読む喜びを味わへなくなったのかしら、といふやうな感じである。

ーーーーーーーーーーーーーーー中略ーーーーーーーーーー
 これはもう一通りの言ひ方をすると、詩人と言はれる若者たちが、いまや、調子のいい、調子づいた、したがってほとんど無限に恣意のゆるされる散文の一種を書くみたいな具合にその詩を書いているのではないという疑問形で言ひあらはされる。散文で書けばそれですむやうなこと、口頭で言ひまくればそれでいいやうなこと、それを、散文で書くのは、散文の性質上現実の物的秩序と論理の次序の要求に一応は従順に従ひ、その試験を経た上、あるひは受けつつでなければ書きおほせず、要するに体をなさないので、これを避け、また口頭で云ふには、相手が自分の存在を認めてくれるかどうかのそもそもの場面を組織するに必要な自信がなく、それに、自分もそれであるところの人間の声といふやつと自分の言はうとすることのあひだのみじめな不協和音が不安で、要するにどっちから見ても自己不信が拭へないために詩が表現形態として採用されたのぢゃなからうかと思われることがあまりにも多い。
 同じそのことは、詩を書くといふことが、近代社会のさまざまな職業と同じく、一通りの技術を覚えさへすれば、別に特別の型と素質の人間でないものにも容易に出来ると見做されて来たといふことでもあり、いくら職業は自由、詩は盛んとは言へやはり「詩人」にならふといふものは少数なので、少し辛抱づよく書きやめずにいればいまでは詩人扱ひしてもらへるといふことになったのぢゃないかといふ風にも言へる。現代何々詩人これこれ詩人といはれる人々にもさう呼ばれた詩人が昔から大勢いて、それぞれに絶唱と言へるやうなものを残しているのに、それらに負けない詩句を作る自信、作らねばならぬという義務感は、今、あるのかしら。それがないから、現代詩は現象的だ、現実と対抗しこれを凌駕する何者かを持たうとする意志によって饗化されていない、とふ感が起こることにもなるのではなからうか。
 ーーーーーーーー中略ーーーーーーーー

1960 9月 「文学界」14−3

「寺田透評論集 近代日本のことばと詩 」より抜粋


現代の詩とは、 心情吐露としての装置 と 芸術としての詩 の二つの側面をもっているのではと考えます。どちらの面も現代人にとって必要な要素になってきているのです。問題になったみさと氏の詩は、個人的にはポエジーではなく人間が立ち上がるタイプの詩だと読んでいました。作者にとって必要な表現なのだろうと同時に、その作者のバイタリティに心打たれる作品群でもあるかもしれません。
フォーラムの詩もまた両者の傾向をもち、ややもすれば前者に傾いている作品も多いです。 思想(人間)と詩の芸術性は複合的に判断すべき要素で、たとえば、思想的に秀逸であったとしても詩表現では駄作と思われるもの、 芸術性は高く感じられるが書いてある中身は小学生レベル というものもあります。 今回原口氏が丁寧にまとめてくださった批判は両者の立場が渾然となった状態で現れているように感じます。表現と作者そのもの、そして読者もが混在している。(まあそれだけ、人間そのままを書き上げている作品が多いということでもあります) 単純に言ってしまえば、りんごの嫌いな人がいたとして「あたしはりんごが嫌い」だと発表する。それに対してりんごの好きな人が「それは残念だ、こんなにおいしいのに、ぜひ食べてくれ」というのはOK、「りんご嫌いがいるとあたしが嫌だからそんなことは書くな」というのはりんご嫌いな人への横暴になるわけです。人間は千差万別で、人の思いも千差万別です。  
ただ、ここには修辞的な問題もからんできて、別にりんごが嫌いでもなんでもない人が創作上の操作として「あたしはりんご嫌いだ」ということを書いたとする、それは作品が必要とする仕掛けであったとすれば本人の思想性の問題ではなく、表現手法の問題として読まれるべきなわけです。そんなときに「おまえ、りんご嫌いなのかよーーばーっか」という評は的をはずします。 「作者はこの話者をりんご嫌いと設定しているが云々」という評が期待される。  まことに作品を読むというのは胃の痛いことであります。
事件の発端はまあ、このあたりの見解の違いがベースにあったのではないかと考えていました。




5、フォーラム掲載につき、追補

サイト管理者の片野氏へ
跳梁者(ぽげさん)の詩は好きな詩でした。 ほんの数行であったのですが、非常に密度の高い結晶石のような硬度とポエチックな感傷の両方を持った詩行があって、とても楽しみに待っていました。現在、彼のフォーラムの時期に書かれていたものは、WEBで読むことができず、ログをとっておかなかったので私の手元にもありません。 とても残念に思っています。 できたら、極力削除をされることないように、そして、やむなく作品を掲示している参加者さんのアカウントを削除する場合、通知が他の閲覧者にも、本人さんにもいただけると嬉しいです。 お願いいたします。

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(注1
ヴォルテールの引用は、実際にぽげさんが私的な会話のなかでなさったものです。彼はWEB上での詩作活動が長く、折に触れてこの信念を表明しておられます。



散文(批評随筆小説等) Copyright リーフレイン 2007-04-21 09:27:34
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