ベロ出しチョンマに投げキスを
佐々宝砂

報道ステーションを見ていたら、イラクで誘拐監禁された三人のうち二人が記者会見に応じていた。という書き出しだとニューススレに書けこのやろーと言われるかもしれないが、私はニュースの話をしたいわけではない。話の話をしたいのだ。

監禁されているあいだ、三人は雑談する以外にやることがなかったという。そりゃまあそうだろうな。ものを書くこともできまいし、写真も撮れまいし、子どもの面倒も見られないだろう。ただひたすら話し合い、ただひたすら待つ。いつ解放されるかわからないまま、情報もほとんど得られないまま、何度も解放の期待を裏切られながら、ただ待つ。とにかく待つ。待ちながら、話す。話すしかできることがないから、話す。そのうち話のネタも尽きる。尽きるから黙りこくる。黙りこくるからよけいにつらくなってゆく。本当につらかっただろうなと平凡な感想を抱きながら、私は、心のどこかで、ものすごく変なことを考えてしまった。

そこに一人の芸達者なお笑い芸人か、詩想が尽きることを知らぬ一人の詩人がいたらよかったのに、と。


「ベロ出しチョンマ」という創作昔話的な童話がある。百姓一揆で家族全員つかまって、はりつけにされる。幼いあんちゃんと、さらに幼い妹もはりつけだ。怖くてたまらないから妹はわんわん泣く。あんちゃんは、自分も怖くてたまらないんだけれども、泣きやまない妹に対していつもそうしてきたように、眉をへんてこな八の字にカクッと下げて、ベロを出して変な顔して「ほらあんちゃんの顔みろ、おっかなくねえぞ」と言う。あまりに変な顔だから、妹はつい笑う。そしてその変な顔のまんま、あんちゃんは槍に刺されて死ぬ。妹は笑ったまんま刺されて死ぬ。見てるひとたちは笑う、笑いながら泣く。そういう話だ。

私はこどものとき、この話が大好きだった。ベロ出しチョンマみたいな人と結婚したいもんだと思った。みんながしんどくてたまらなくて、怖くて、悲しくて、もうどうしようもない状況で、それしかできないから、変な顔して笑わせる。そういうことができる人は、本当にすてきな人なのだろうと、子ども心に思った。

ベロ出しチョンマの顔自体は、かなりかっこわるいへんてこなものなんだろう。だけど、必ずしも人を鼓舞しない、必ずしも人を感動させない、ほんとならただのお笑いに過ぎないその顔は、この危機的最終場面においては、「笑い」というものすごく強い武器となって槍という権力に抵抗する。


監禁されていた三人の中に、ひとりでも、ベロ出しチョンマのようなすてきなドアホがいたならば、彼等の監禁生活は、ほんのわずかでも潤ったのではないかと思う。そして、もし私がそんな状況に陥ってしまったなら、せめてはその「ほんのわずか」なことをなしうる詩人でありたいと思う。人を悲しませず、苦しませず、心を解放し、思い切り笑えるような、そんな言葉を紡ぎ出せる詩人になりたいと願う。かなり大それた願いのように思うけれども。「ベロ出しチョンマ」の物語は、どんな恐ろしい事態に陥ったときでも、詩人は何かをなせるのだという物語であるようにも、私は思うのだ。

私の理想、ベロ出しチョンマに、投げキスを。


散文(批評随筆小説等) ベロ出しチョンマに投げキスを Copyright 佐々宝砂 2004-05-01 01:03:03
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