MY FAVORITE THINGS
はらだまさる
http://www.youtube.com/watch?v=NllPZ5_Tw40
*
会話であったはずの
数千年は
次の朝には
朽ち果てていた
近付いてくる
片足をなくした老人が
静かに私に
ほほえむ
*
探しているのは
山の斜面に突き刺さる
陽射しに弾ける
木々の呼吸だ
その呼吸は
白川郷の茅葺屋根にも似た
所謂、痛みと快楽になって
人々の頭を垂れさせるのだ
虐げられた
人の怒りと優しさと
絶望が極まった
遠い国の田舎の片隅で
それは産声を上げ
破壊と想像を繰り返し
強靭な何億もの肉体で
丁寧に、丁寧に磨き上げられた
その粒子の細部の
細部にまでその汗と
血が混じった
黒い波動だ
昨日まで
漫画本で自慰してた少年が
交わってしまう様な
音楽だ
*
老人は
人生の最期の愉しみとして
そのジャズと云う代物を
探しているのだと謂う
いとも簡単に
忘れ去られてしまった
歴史があると謂う
もう私達には
知る事が出来ない
過去があると謂う
止まることのなかった
時間の歪に消えてしまった
悲しみがあると
老人は謂う
*
この豊かな時代に於いては
想像することも
不可能な
貧困があったのだ
人が豊かさを妬み
奪うような貧困があったのだ
人が手の平を返し
裏切るような貧困があったのだ
人が人を殺める貧困が
そこにはあったのだ
極度のスリルを
その快楽を愉しんでいた
人が人でなくなった
そんな時代が
ずっと
ずっと続いていた
誰一人として
そのことを疑わなかったし
もし疑えば生きながらに
殺されるような
だから誰一人として
その歴史を裏返すことは
出来ない、
そんな時代だった
先進国とか発展途上だとか、
戦争と平和、と云う鈍い感性が
手垢にまみれて黒光りしても
まだ、流行っていた
*
しかし、いつの時代も
稚拙で醜いものが
淘汰されてゆくのだと
老人は謂う
そうして時代は
未曾有のひかりに照らされ
花が強い陽射しに枯れるように
変わった
もう何かを悲しむ必要もないし、
もう誰かを妬んだり恨んだり、
もう不幸や平和や、格差や平等という言葉も
もう思い出す必要さえなかった
*
その醜い貧困や争いは
誰もが思い出したくない
過去として全人類が総動員で
忘れ去る努力をした
最先端の科学と
ドラッグと圧力と芸術と
知識によって生み出された
たったひとつの、言葉によって
そうして
本当に忘れ去られてしまったのだ
過去も歴史も文化も
人々の記憶と云う記憶が
*
この片足のない老人がいなければ
私や君が
その事を知る手立ては
もう、なかっただろう
私は老人の話をじっと聞いて
何故か涙が止まらなかった
もう消え去ってしまうであろう
過去がここにあるのだ
私がここに
記録したところで
明日には消えてしまう
くだらない過去だ
忘れたくない記憶と忘れたい記憶を
すべての人々が呼吸している、と老人は謂う
MY FAVORITE THINGS、という
曲を探していると謂う
黒い巨人が吼える子供のように
私たちに伝えていたのだと
片足をなくした老人が
微笑みながら、泣いていた
※ジョン・コルトレーン『MY FAVORITE THINGS』を聴いて
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