春の詩を書くために
ブルース瀬戸内

風が時にそうであるように
春の詩は私たちに随分とつれない。

褪せた色の春が私たちにもたらしたのは、
決意という無限くらいだろうか。

望まなかった過去を
無理に思い出させてどうするというのだろう。
それは、すでに泡立ったアクアソープに対して、
泡立たない自分を想像できるか、と詰問するほどに愚かだ。
我々はもう「そこ」にはいない。「そこ」にはいただけだ。
果たして、今は過去になりつつある。

時を刻むことで増える約束もある。
時間が不可逆だから未来へ思いを馳せることもできる。
明日が昨日ならば
明日のための今日の蓄積は存外に無目的だ。
地球が大胆で細心な生物音に支えられながら
切り拓いた46億年だって例外ではない。

大したことはないと決め込んでいたことに
一番苦労したりするものだ。
明日の栄光は私が捨て鉢で担保するもので
すべてが構成されるわけではない。

明日は何かの区分であるだけなのかもしれない。
踏ん切りのつかない私たちに
踏ん切りをつかせてくれるものなのかもしれない。

10分後を見事に予言できるパントーストの
「今朝は食べられない」という予言は無意味だ。
私はパントーストを食べながらそう思う。
とはいえ、言い切ったことが真実となり
言い切らなかったことが不実となるシステムが
問題だと言い切れるだろうか。

風が時にそうであるように
春の詩は私たちに随分とつれない。

正解はいつも蚊帳の外だ。
正解ではないことを正解に擬装するために
私たちはありとあらゆる英知を結集させる。
それを無駄というのは簡単だが、
やめる理由にはならない。

私たちはロジックを超えてしまっているのだ。
だからこそロジックは癖になるほどに心地よかったりする。
感情はいたって流動的で
本当はロジックを周回するのに手一杯なのだ。

それでもつぎはぎの感情を身体中に滾らせて
彼方に未来を覗こうと強烈に思う。
だから春の詩を書くのだ。
たとえ理由が結果的に理由であってもだ。


自由詩 春の詩を書くために Copyright ブルース瀬戸内 2007-03-26 21:58:27
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