ネチズンたちの詩メディア
川村 透

山田さんの文章を読んでいたら、とりあえず以下の文章をここに預けてみたくなりました。2000年7月、「詩と思想」特集 電子ネットワーク上の詩人たち、に掲載されたエッセイです。

■ネチズンたちの詩メディア
 〜わたく詩ゴトの「現場」から〜 ver 2.3b
川村 透

 僕は、ネットワーカーである。詩人かどうかはわからない。でも
僕はひとりの「電子ネットワークに詩、のようなモノを預け続けて
いるヒト」として、主にniftyのFCVERSE(現代詩フォ
ーラム)に、詩のようなモノ、を発表し続けている事だけは確かだ。
 僕はただ、わたく詩をのみ背負って発言する。僕は詩のようなモ
ノを会議室に預け、時に何かを感じてくれた人からのコメントがつ
く。僕も誰かの発言に触発されてコメントをつける。地位や立場や
年齢や職業や性別などに関わらず誰もが同じ「個」としての説明責
任を背負う「通信」という場だからこそ、僕たちは危険な程、率直
に自由に切実に発言出来る、時に論争の火花散りコメントに次ぐコ
メントで枝葉に分かれ巨大な発言のTreeが刻まれるくらい熱く。
 こうして、わたく詩のカケラたちが降りしきる雨の中で僕たちは
言葉の形をした思いと想いから「詩、のようなモノ」、を、「作品
として共有出来る何か」へと練り上げて行く。そこは、「現代の詩」
という状況において、時間と空間を越えて今、詩を読み、書き続け
て行きたいと言う、うずうずとした思いの集う場であり、詩に関わ
るアクセサーたちの求心性と、個々の価値観の多様性の両立によっ
て、正に、言葉たちのメクルメク坩堝として機能しているんだ。
 詩作品とそれに対するレスポンスは、極めて自由に、リアルタイ
ムにクイックに発言される、わたく詩ゴトの群集い流れる百億の銀
河のように。それは言葉にとっても、「現代の詩」にとっても、ひ
とつの「現場」であり、シンプルなテキストのみで闘う言葉のヴァ
ーリ・トゥードのようなものだ。自立した電子ネットワーク社会の
市民、ネチズンたちが言葉を預け続ける、niftyの中のコミュ
ニティ、混沌と求心の詩メディア。そこは真にスリリングなリング
なのだ。ある時はグラップラーであり、同時に観客でもある僕たち。
濡れ濡れと身に染みているか?いきいきと僕たちの「生」を照らす
言葉として共有出来るのか?美しく、重く、伝わるのか?僕たちは
読み、書き、場の作用によって互いに刺激を受け、響き合い、わた
く詩ゴトを編み上げて行く。
 ここは読み捨てられて行く事によって「編集」され続ける詩のよ
うなモノ、ノケたちの賽の河原。百億の銀河の流れ、そのうねりの
中からこそ千のナイフが生まれる。僕たちは言葉の筋肉をギラつか
せて疾駆する電子の虎だ。それはすぐれて「現代」の無意識を、言
葉を紡ぐ人、人、人、群集う欠け、ラたちを映すめくるめく鏡のよ
うなモノ。僕たちの「今」を紐解く夢意識の、ランダムなインデッ
クス。こうしている間にも、電子ネットワークは、言葉の坩堝とし
て、抛りこまれる言の葉たちをさらに煮えたぎらせ、詩、のような
モノ、ノケ、たちの欠け、ラ、から、「僕」のような、わたく詩ゴ
トを営む蜘蛛の子、ラを、今も、際限なく産み続けているのだ。


散文(批評随筆小説等) ネチズンたちの詩メディア Copyright 川村 透 2003-08-13 17:07:53
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