僕が詩を書く理由
ツ
書いてもいいし、別段、書かなくてもいい...。
それは深夜、友人とファミレスでお喋りするような内容でもなければ、日記帳に綴って記録に留めて置くような情報でもない。
元来、記憶にも記録にも残らない宿命を背負って、ぽろぽろと生まれて来るものがある。そもそも、内容なんてあるのかその無内容ぶり...。くだらない妄想やまるで何の役にも立ちそうもないアイデア。「あ」、と思った瞬間の心の動き。
好むと好まざるに関わらず、人間生きているだけで、毎日、じつに様々なことを考えていたりするものが、それらのおよそ大半は、言葉や声に発せられて外界の光に触れる機会も与えられず、ただひっそり、黙々と記憶の墓場へと流れ着く (成仏すらできずに...)。
そしていつしか、それを考えていた人間が、そのことをすっかり忘れ果てたとしても、当人の生活上まるで支障がなく、だからと言って完全にゼロにもなり切らない...、なんというか、日々なんとなく心の中に溜まっては、やがてバニシング・ポイントの向こう側へとすり抜けてゆく、それはそれは恐ろしく微妙なものごと.....それが僕にとっての「詩」の原形だ。たぶん。
いうなればひっそりと、人知れず、冷蔵庫の奥のほうで干からびてゆく、「野菜の切れっ端」や「パン屑」みたいなもの。食品として食べられることもなければ、人目に触れ、「物」として掃除されたりすることなども滅多にない、用途不明の物体...。
そうして彼ら(野菜屑たち)は、ゼロになり切ることのないままに、またどこかへと消えていってしまう。まるで最初からそこに存在しなかったもの(こと)のように。波にさらわれてはきれいに均されしまう、砂の落書きみたいに...。
すべての「消えゆくもの」は、哀しい。
授業中に考えたくだらない妄想も、冷蔵庫の奥で干からびてゆく野菜屑たちや、飲みさしのボルヴィックも、哀しい。小学校の頃に親に買って貰って、引越しの時にあっさり捨ててしまったバッタもんの仮面ライダーも、吐き気を催すほどアオ臭くて甘酸っぱい失恋の痛みも、死んでしまったインコも、風呂場の石鹸も、川に流した白線も.....皆平等に、哀しくて、美しい。
すべての「消えゆくもの」は、潜在的に美(詩)を孕んでいる。
そんな、もはや生気が失われる寸前の、彼ら(野菜屑たち)の声にもならない囁きに(もがきに)誘われるれるように、彼らのことを文章に記録してみる。そこに働いている力があるとすれば、彼ら(野菜屑たち)を少しでも長い期間、記録(と記憶)に留めたいという、僕の浅はかな想いにほかならない(そうして外の光に触れることで、果たして彼らはちゃんと成仏できただろうか。僕はそれを願ってやまない)。
もやもやと何処か遠くへ消えていってしまう運命のものに、まったく別の出口を設けてやること。それが良いことなのか悪いことなのか、皆目、見当もつかないけれど。