「主役」と「脇役」は違いがあるのか
北乃ゆき

今日、某女性週刊誌を立ち読みしたところ、

「幼稚園のお遊戯会でかぐや姫が4人」

との見出しを見つけた。ほんとか嘘かは知らないけれど、今お遊戯会で生徒に平等に扱う為にかぐや姫を4人にしたり、ひどい所では全員が桃太郎になって鬼のいない桃太郎を上演したりするんだそうだ。


記事では、その不自然さを取り上げ、平等とは何ぞやと問いかけているのだけれど、私は平等論を語る気はない。ただ一つ言えることは

これは芝居に対する冒涜だ


なんでもいまどきの親は「主役」が自分の子ではなく他の子になった時、なぜあの子が主役なのかと問合せしたりするんだそうだ。で、記事では問合せする親の価値感に意義を唱えてる内容なんだけど、私が腹立つのは問合せより

なぜ自分の子が「主役じゃない事」に拘るのか

という事。これは意識の下に「主役」=「脇役より上の扱い」
という認識があるからではないだろうか。


私は映画や舞台を趣味にして長いけど「主役」が一番、と思った事は一度もない。力があるから主役ができるとも思わない。「主役」だからといって技量が優れているとも思わない。だから「主役」じゃないからといって不満を持つ親の頭の中身は全く理解できない。興行的な背景も束縛もない学芸会において、「主役」じゃない事に不満を持つという事は「脇役」は「主役」以下という無意識の中の認識があるからだろう。そういう人達はまともに舞台を観たことがないんだろう、と勝手に決め付ける。

興行が関係ない公演において「主役」は「脇役」以上ではけしてない。

舞台芸術という物はその本質において、主役であろうと脇役であろうと、監督であろうと照明係であろうと作品に関わる物すべてが平等の存在意義を持つと思う。その作品に関わる人総ての力が総合され、その舞台の評価となる。「主役」は一番ライトがあたる位置にいる役者というだけであり、それなりに責任を持ったりもするが、舞台の本質においては1キャストの中の一人。「主役」がスポットが一番あたるから、一番良い、優れているとしか考えられない単細胞な人間は舞台だけではなく、物語性のある総ての芸術の観方が浅い。そういう物を鑑賞するのにむいてないよ。

鬼のいない桃太郎、なんて何が面白いのか。そんなの学芸会だろうと上演する意味がない。芝居が楽しめないじゃないか。

私が親なら喜んで鬼の役をさせる。そしてどれだけ鬼が怖いか舞台で表現すれ、とはっぱかけるけどな。子供だって多様。桃太郎より鬼が向いてる子は沢山いるでしょう。鬼がどれだけ恐ろしく残酷で、でも桃太郎にあっさり負けてしまう惨めっぷりをいかに表現できるか、それは桃太郎がどれだけ強いか、を表現するのと同じくらい重要な事だ。絶対に。

だいたい人は平等である事を子供に教えたいのなら、主役と脇役をきっかり分けるべきだ。どんな物事も光と影があり、しかし本質においてその両者は平等なのだと子供の頃からしっかり教えるべきじゃないだろうか。


何が平等とかそんな物を知らない子供が増えてもなんとも思わないけれど、桃太郎しか知らない子供達が成長し、その幾人かが舞台ファンとなった時、主役をやる役者が上手く、選ばれた役者なんだと思いかねない。


どんなに目立たない所でも、きちんと役割を考えて演じたり作ったりするのを楽しむのが舞台の面白さ。主役向きの役者だけでは舞台は作れない。通行人の役を如何にさりげなく歩いて見せるか、その後姿だって舞台の一部なんだろうに、その演技をみようとしない舞台ファンがどんどん増えるんだろうか。それが心配だ。



散文(批評随筆小説等) 「主役」と「脇役」は違いがあるのか Copyright 北乃ゆき 2007-03-04 05:04:29
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