挙動不審者
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 窓の外に挙動不審者がいる。怖い。
 昨日の夜もいた。
 二階の部屋のカーテンのすきまからそっと表をうかがう。
 不審者は家の前の電柱に半ばまで登って、そこにしがみついていて、顔を半分のぞかせながら、じっとこちらを見ている。外はまだ肌寒いというのに、上着は白いトレーナーしか着ていない。
 顔はよく見えないけれど、全く見覚えのない男であり、おそらく駅から帰るときに後をつけられて、そいつに私の自宅を知られてしまったのではないかと思う。
 こういうのが女性にとって、どれほどの不安と恐怖であろうか。
 この家は私と母と二人で暮らしている女だけの所帯である。私は化粧品の工場に勤めているが、こう怖くては出社のために表へ出るのにも差しつかえる。
 それで、とうとう私は警察に連絡したのであった。


「不審者が家の前にいるんです」
 と私は訴えた。
「不審者ですか。顔見知りではないんですね」
 電話に出た警察の職員が言った。「その人はどういった感じですか」
「二十代前半くらいの男性です。その、こちらをじっと見ていて、不審なんです」
「家の前からじっと見ている、と。それだけですか、他になにか」
「向かいの電柱によじ登ってくるんです。こう、両手と両足を使って」
「はあ」
「あとですね、鳩を食べます」
「鳩? 食べるんですか、その男が。家の前で鳩を?」
「食べるような感じです。不審なんです」
「感じ? というのは、実際にその男が鳩を食べるのを見たわけじゃないんですか」
「食べるとか食べないの話じゃないんです。鳩を噛みちぎって食べかねない勢いというか、とにかくそういう不穏な雰囲気を、身のこなしから漂わせています」
「……どうも、わからないな。じゃあ、男は鳩を食べてないんですね?」
「どうして鳩にそんなにこだわりますか。男は白のトレーナーを着ています。多分、子どもをさらってると思います。もっと言えば、常習的にさらってると思います」
「思いますって……あのですね、あなたの意見が聞きたいのではなくて、実際に起こったことだけを聞かせてもらいたいんだけどね」
「それに、見たところ、男は体を不自然なほど鍛えていて、だから子どもの一人や二人は問題なく抱え込めるはずなのです」
「ああ、その……いや、わかりました」
 それから警察は、何か事件が起こらないと対処できないので、不審者が法にふれるような行為をしたら改めて連絡してほしい、とすっかり投げやりかつ事務的な調子で述べると、無造作に電話を切った。
 率直にいうと、非常に腹が立った。
 治安をなんだと思っているのだろうか。やはり、官憲なんていうものは使えない。税金で私腹を肥やすのに努めるばかりで、いざってときには不安に苦しむ庶民の助けになんか決してならない。あてにした私が馬鹿だったんだ。


 私は不機嫌に一階へ下りると、茶の間に腰をおろして、母を起動した。
 起動を待つ間に湯呑みにお茶を注いだ。それから、母に話しかけた。
「母さん、表の不審者、あれからずっといるみたいよ」
 母はいつもの落ち着いた平板な声で応答した。
 ――怖イネ。大丈夫ダト、イイネ。
「それで警察に電話したんだけどね、まともに取り合ってくれないのよ」
 ――ダメダネ。困ルワネ。
「そうなのよ。それで不審者が家に押し入ってきたら、どうしようって」
 ――イヤダワ。何モナイト、イイケドネ。
「本当に警察がちょっと来て、あいつを追っ払ってくれたら、それで良かったのに。私腹ばっかり肥やして、ああいう不審人物をのさばらせておくんだから。いつでもそういうのが政府のやり方なのよ。どうしたらいいんだろう、押し入ってこられるのが怖い。だって絶対に鳩を食ってるわ、あいつ。そういう顔よ」
 私は母を持ち上げて、いつもの棚の上に置いた。そして、テレビをつけるとチャンネルを次々と変えていった。
 テレビはもちろん、家の前にいる挙動不審者に人はどう対処するべきか、そういう大切な内容の番組が放送されていてしかるべきだった。だけど、どのチャンネルも同じような、ぎとぎとした劣情を垂れ流しているばかりで、本当に肝心な情報は得られなかった。
 テレビはテレビでこんな風である。いったい誰が私たちを助けてくれるというのか。私は小さくため息をついて、夕食のしたくに取りかかった。


 その夜のことだった。
 何かがきしむ音を感じて、ふとんの中で急に目が覚めた。
 うめき声をあげて、体をのばすと、ぼんやり窓の方に目をやった――途端に、私は息を飲んで凍りついた。
 不審者が外側から窓枠につかまって、部屋の中をのぞきこんでいたのである。
 驚きと戦慄で心臓がきりきりと痛み、目がはっきりと覚めた。これは全力でもって逃げなければいけない……と、とっさに起き上がろうとするのだけど、見えない巨大な手に押さえつけられているように、あおむけのまま、まったく身動きがとれないのだった。
 そいつの体躯は、遠くから見ていたのでは分からなかったが、間近でみると2m、ないしは3mはあるかと思われる長大さで、窓一面を覆いつくすものだった。
 混乱する頭で必死に考える。これは警察が言っていた不法行為に該当するだろうか。おそらく該当するはずである。だって、他者の敷地に無断で侵入しているのだ。
 その暗い顔には一つの大きな目しかなかった。
 そいつの大きな目が窓の外から、じっと私を見据えていて、私もその目に吸いつけられるように見返していた。
 考えてみるに、そいつは今は見ることのみを欲しているので、見るための器官である目しか、顔面に必要がなかったのにちがいない。
 もし仮にそいつが鳩を食うことを欲した場合、そのときは食べる器官のみ必要というわけだから、その顔は全部が口だけになって、哀れな鳩を骨ごとばりばりと(おそらくは生きたまま)、口元を血だらけにしながら噛み砕くことだろう。
 だから、そいつはいちどきに一つのことしかできない、わりと不器用な怪物なのだ。
 私はそれらのことを理屈でなく感覚で理解しつつあった。
 私は呼吸すら忘れて窓の外のものに見とれながら、なすすべのない確実な死を覚悟していた。
 窓には鍵がかかっていたが、そいつは難なくそれを通りぬけて、横たわる私のそばに立ち、何だか分からないがそいつにとって必要と思われることを容赦なく私にした後、無慈悲に私を殺すだろう。
 しかし、そいつは窓枠につかまったまま一向に動こうとせず、ずっと私を見下ろすばかりだった。
 そのうち、急に眠気が襲ってきた。眠気は強烈で神秘的なものだった。
 これほど生き死にのかかった切羽詰まった状況で、寝てはいけないと真剣に思うが、どうにもならない。おかしな話だった。でも、自分の生きようとする抵抗が、こんな程度のものならば仕方ない。むしろ死ぬということは、もっと苦しくて酷いことを想像していたので、ひょっとしたらこんな風に寝ている間に苦痛なくすむのなら、それほど悪くはないのかもしれない。
 頭がぼんやりとして、ふたたび眠りにつくときのくつろいだ快感が全身に満ちてきていた。体中から力が抜けていって、意識は暗闇へと垂直におちていった。


 視界の中央にいくつもの光点が横一列にならんで、上に下に細かく揺れていた。
 注意して見てみると、それは波間にたわむれて反映する光であり、その下方をのんびり横切って進むヨットの白い帆が、背景の青さのなかにくっきりと際立っていた。
 それは海だった。
 私は山あいの斜面を歩きながら、海を見ていた。
 おーい、おーい! 私は遠くを行くヨットに向かって心の中で叫んでいた。
 その眺めの斜め下から上方へ、旋回しながら羽ばたいて通りぬけていったのは、鳩の群れだった。
 私の右手は母の左手とつながれていて、母は薄い茶色の日傘をさしていた。
 ――お母さん、ヨットだよ。
 私が海のほうを指さすと、母は笑って言った。
 ――そうだね。
 風が私たちのいる斜面に吹きつけていたが、汗ばんでいた体には、ちょうど心地よい涼しさだった。季節が夏であることは言うまでもなかった。
 そのとき、私たちはどこからきて、どこへ行くところなのか、状況は思い出せなかったけれど、私はすこぶるご機嫌であり、母の気分は穏やかであり、空は晴れ渡っており、少し体が汗ばんでいたことも含めて、全て印象は喜ばしいものだった。
 少し歩いていって、狭まった道にさしかかると、道の脇にひとつの鳩の死骸が、胸を裂かれて落ちていた。
 胸に深く開いた傷口のまわりには、乾いて固まった血がこびりついていた。先ほどの鳩の群れから脱落した一羽であることは間違いなかった。あまりグロテスクな感じはしなかったけれど、それは現在の喜ばしい印象にそぐわしくないものに思えて、私は上手に軽やかに無視することが出来た。
 おーい! 私はここだよ、ここにいるよ!
 また海が見えたとき、今度は声に出して叫んでみた。沖合いの海の上に浮かぶ白いヨット。叫んだって届くはずはないけれど、あんな遠くにもちゃんと人がいることが不思議で、無性に嬉しかった。
 母は私だけに笑いかけていた。そのとき、私はたしかに母の顔を知っていた。
 風は止むことなく吹きつづけて、海の輝きは一段と明るさを増していた。同時に、その輝きは小さく丸く収まっていて、何かの照明のように思われた。それは実のところ廊下の照明だった。
 いつしか歩いているのは、うすぐらい警察の廊下で、私はそこの職員であった。
 電話がどこかで鳴りっぱなしになっていて、職員である私は急いで受話器を取ったつもりが、鳩の死骸を手にしていた。鳩のぱっくり割れた胸の傷口から大きな目玉がこちらを見つめていて、その目玉は窓枠なのだと分かった。
 そこから外をのぞくと、日傘をさした母が遠くで揺れていた。


 ガラスが割れるような目覚まし時計の音で、私は目を覚ました。
 あまり疲れが取れていなくて、頭が重かった。それから、ゆうべのことが徐々に思い起こされた。大きな恐ろしい怪物が窓の外にいた。あのゆうべ見た全ては、夢だったのだろうか。
 なんとか立ち上がって、窓枠を確かめてみたが、これといった不審者の痕跡はなかった。家の前にも誰もいないようだ。
 不審者の存在が夢であったなら、それにこしたことはない。しかし、よく思い返してみても、あの出来事が夢であったとも、なかったとも、どちらにも断言は出来ない感じなのである。
 もし、夢でなかったとしたら、どうする。あいつが大きな図体に似合わず慎重派で、昨夜の行動は様子見、すなわち哨戒活動であり、本格的に踏み込んでくる次の行動をもくろんでいるとしたら。
 といって、寝起きの頭で考えても、何も思いつかなかった。眠い。まだ頭がぼんやりしている。
「起きなくちゃ、起きなくちゃ」
 口ずさみながら、私は階段を降りていった。(了)


散文(批評随筆小説等) 挙動不審者 Copyright hon 2007-03-02 00:09:12
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