王女メリサ
atsuchan69

 よわい月の光をとおした色のないおぼろげな雲が涙ににじんだ恋文のようにせつなく空いちめんをおおっていました。
 真下には黒くふかい森がひろがり木々の葉はじっとうごきを止めて緩やかな風に「さや」ともゆれませんでした。やがて上空を思いだしたかのように風が走り、雲がわれるとすこしずつ真白い満月が顔をみせはじめました。すると葉の一枚いちまいが大切に溜めた小さくまるい銀の雫は葉のくぼみをころがって「プルン」とやや震えながら、せまく窄まった先へと急に転がり落ちてゆきました。
 そのとき突然、森じゅうにひびくような大きな羽音をたてて一匹のフクロウが空へ飛びたちました。
 フクロウはいちど空の高くまで舞い上がると一転ひるがえって降下し羽をすっかりのばして雲の晴れた夜空をじつに悠々と飛行しました。
 月に照らされた夜の空をしずかに旋回して飛ぶフクロウには森がうごめいているのが見えます。
 耳には木々の葉が「こそこそ」「さやさや」話(はなし)するのが聞えます。
「こそこそこそ」
「さやさやさや」
「・・・・魔女がくるよ」
「ほうきに乗ってかい?」
「いや魔法の馬車にのっている」
「誰から聞いたんだい?」
「隣の葉っぱからさ」
 曲がりくねった森の中の一本道を二頭の緑色の馬に引かれた馬車がすさまじい速さでこちらへやって来るのを「こそこそこそ」「さやさやさや」葉っぱたちがヒソヒソ話すと、たちまちのうち森じゅうの動物たちや妖精、そして虫や草花たちへまで皆々に伝わりました。



 魔女はきらびやかな金や銀をつかった特別な布でこしらえた外套を着、ときどき帽子が天井にあたるほど激しくゆれるのもさして気にせず、口をへの字にまげて噤んだまま膝の上には黒猫をのせキャビンの椅子に座っています。
 そのうち魔女はついにこらえきれず、ちいさな窓からやっと顔を出すと大声で言いました。
「もっと早くおし! 生まれちまうじゃないか!」
 従者は帽子をおさえてふりむき、
「箒でとんで行けばもっと早いですよ!」
 泣きそうな顔でそう言うと、
「おだまり! 若造のぶんざいでほざくんじゃないよ! 言うとおりにしないとカエルにするよ!」
 ひどく怒鳴ってそう言い、魔女は窓をピシャと閉めました。



 さて、お城は森をすぎてしばらくの湖のそばにそびえ湖面に映る月とともにその影をすばらしい美と威厳をもって投じています。
 間もなく魔女の乗った二頭立ての馬車が城門のまえにとまり、
「城の者! 魔女ヘレンさまのお着きだ!」
 従者がさけぶように言い放ちました。
「よし。お通ししろ」
 門兵に侍従のひとりが命じました。
 さて城のなかでは王妃の部屋に医者と国王がならんで立っていました。
 ベッドには苦しみをすぎた穏やかな顔の王妃とそのとなりにお生まれになったばかりの王女が寝ています。
「女の子です。どうかお喜び下さいますように」
「王よ、これも神の御業です」
 王妃は生まれたばかりの子をやさしく見つめて言いました。
 そこへ侍従があらわれ王に耳打ちしました。
「王妃のお母様です」
「そうか」王様はすこし困った顔をし、「こちらへお連れしろ」そう言ってすぐ、「いや、待て。その前にふたりだけでお話したいことがある」
 と、言い直しました。
「その手はクイマセンよ」
 すると魔女がすでにもうそこに立っているではありませんか。
「ああ、お母様・・・・」
「約束だよ、男の子だったら王家の世継ぎに・・・・女の子だったらアタシに・・・・それもたった今すぐ。忘れたのかい? それとも魔女の血を絶やそうってわけじゃないだろうねえ? お前が嫁ぐときの条件はたったひとつだけだった筈! さっ、連れてゆくよ」
「お母様! それはあまりにも・・・・」
 魔女はむりやり子供をさらってゆこうと皺だらけの手を伸ばしましたが、赤ちゃんはとつぜん泣き始め、すると「ぱっ」と消えてしまいました。一瞬のことなので魔女は目をパチパチさせてしばらく立ちすくんでいましたが、やがてベッドに眼をうつし純白の絹のシーツの上に二匹のカエルのいるのを見てやっと事のしだいに気がつきました。
「計ったね!」
 ふり向くと王様はそしらぬ顔で立っていました。
「これはお義母さま。いったい何がどうして何なのか? わたしにも皆目さっぱりわかりません」
「ふん。そのように仰せられますか。お約束を破られた以上、この国は必ずや呪われるでしょうぞ。魔女の怒りがどれほどのものかお知りくだされ!」
 妃の母である魔女ヘレンは着ている外套をついにぬぐこともなく、帯のようにながい裾をひきずって家来の者たちを忽ちみぎひだりに退かせるとものすごい形相のままそそくさと城を出て行きました。



 魔女の怒りはさっそく雷鳴になって国じゅうに轟きました。青い夜にふたたびあやしい雲がたなびくと、カミナリと激しい雨、突風が吹きはじめました。
 王様と老侍従は小窓をのぞき、
「困ったことになった」
「これからこの国はどうなるのでしょうか?」
 ひどく心配な顔で話しました。
 ああ、闇に一瞬ぱっとうかぶ吹きすさぶ景色。大地と空をつなぐのは、両者を睨みあわせる悪意のしるしとでもいうべき稲妻でした。
「しかし娘を魔女にやるわけにはいかん。それだけは断じて」
「ですが王様、魔女との約束はたしかにありましたよ」
 そこで王様はうつむくと咳払いをしました。
「う、おっほん。そのように約束した覚えも確かにあるにはある。しかし・・・・けして 本心からでた言葉ではない」
「王様。あなたは魔女ヘレンから、ひとり娘である妃をうばったのではないのですか?」
「奪ったと申すのか」
「いえ。・・・・お許しを。ただ、魔女はそのように・・・・」
 侍従の言葉をさえぎり、王は威厳をもって言いはなちました、
「自由を殺してまで平和を望むべきだろうか? 魔の力に媚びて平和を口にできるだろうか? 平和とは自由。自由とは愛をはぐくむ時と場所。わたしはこの信念をけして曲げるつもりはない」
 侍従はよけい心配な顔になって言いました。
「外はだいぶ酷いです」
 王様はかたく目をとじて言いました、
「つよい怒りほどすぐに消えて失せるものだ。案じるのではない」
 そのとき、カミナリが別棟の屋根に落ちるさまをふたりは目の当りにしました。
「王様・・・・」
「いや大丈夫。窓を閉じよ。わたしは鏡の部屋へゆく」
 侍従はでてゆく王の背中をすさまじい風のおしよせる個室の窓辺に立ってなにか言いたげに空ろな顔で見送りました。



 妃は魔女エルダとともにその妹エスターの胸のメリサを見ました。
 永遠のバラの咲く夜のない庭といたいけな子らのあそぶ広場、虹色にかがやくクリスタルの門と煙突のない無数の蝶たちがとびかうお花畑の屋根。ところどころ蔦におおわれた家の壁には貝殻や珊瑚がしっくいの下地が見えなくなるほど無邪気にたくさん張りつけられています。まさか昼だというのに太陽はなく、青い空には透明なオレンジやピンク・・・・そしてイエロー、あるいはグリーンの星々がどこまでも遠くちらばって見えています。空気は山の頂のように清々しいうえ、くわえてお菓子を焼いたときにただよう甘いバニラの香りがいつでもそこにありました。
「たとえへレンの力をもってしても、この国へは入れませんわ」
「ええ。ご無理をねがいます」
「御安心を。どうかお気になされませんように」
 ここは全地の魔女と地にしがみつく人々に隠された秘密の世界。密かな夢の国でした。



 その日、夢の部屋の鏡台をまえに白いドレスを着たエルダとエスター、そしておなじ白いドレスを着た王女がならんで立ちました。髪型もドレスもすべて御揃いです。鏡のなかには凛々しく優雅な瞳をいくぶん細めた王様と妃が映っています。
「元気そうだ。メリサ、もうじきおまえは3歳になる。早いものだ」
「メリサ、いまこれだけ!」
 彼女は鏡のまえで「ふたつ」を指でつくろうとするのにできません。それでしかたなく片方の手で親指をおさえました。「あれ?」すると小指が立ちました。「あれあれ?」
「もういいわ。メリサ、もういいのよ」
 妃はくすくす笑って言いました。
「こちらはいま実りの秋をむかえようとしている。農民たちは収穫におおわらわだ。冬には国じゅうが贅沢をしてもらいたい。なんといっても、メリサ! お前が帰ってくるのだから!」
「うん!」
 メリサは瞳をつよくかがやかせて言いました。その真横に立つエスターはただやさしく微笑んでいました。
 こうしてその日、王様と妃は鏡の部屋で一日をとてもみじかくすごされました。




 そしてある夜。王のまえに妃は立ちました。
「まだ早いのでは?」
王はゆらゆらと燃える暖炉のそばで椅子にのけぞっていました。
「もう大丈夫。怒りはとうに退いた。妃の母とて人の親。いまごろ可愛いメリサを抱きたくてさぞや辛抱しているにちがいない」
「・・・・」

 そこで妃は、母である魔女ヘレンに会うことを決め、城の窓からフクロウに姿をかえて飛びたちました。
 さすが森のうえまでくると狼の啼くこえや昔なつかしい木々の葉のささやきが聴こえました。森のある一点で妖精たちがほのかにひかりながらおどる姿も見えました。夜がしんしんと深くなってゆく気配を感じながら、フクロウはかつて魔女ヘレンを命がけで愛した男たちのしずむ底なしの沼をめざしました。
 沼のほとりに立つ枯れかけた背のひくい木のかぼそい枝にとまると、フクロウは羽ばたかずに落ちました。夜の静寂は乱れることなく辺りをつつんでいます。くろくまるいかたまりが折れた木の枝や落ち葉のうえにぽつんとひとつありました。かたまりはまもなく起きあがり、頭巾のついた黒くそめた亜麻布の外套をぬぎました。ここからはもう魔女でなく王女の母、そして妃でした。妃は「ぴゅー」と指笛を鳴らしました。
するとどこからやってきたのか白い靄(もや)が訪れて妃の足のあたりをつつみました。妃は真下にむかって、
「久しぶりね、元気だった?」
 靄はとても嬉しそうに妃のからだのまわりを覆い、ぐるぐる奔るように動きつづけました。「まわらないで! 眼がまわるから。それよりわたし魔法はもう使わないの。だから母さんの家までわたしを連れて行ってちょうだい」靄は妃の眼のまえでドーナツのかたちになりました。それからとつぜん、いきなり地面すれすれにとびたちました。すると妃はまえかがみになって倒れましたが、靄は止まろうともせずにどんどん飛びつづけます。森が、木々があっという間にすぎてゆきました。・・・・妃は両手で顔をおおい、芝生にしゃがむような姿で魔女の家の庭にいました。風の気配を感じなくなったので妃は両の手をはずしました。「着いたのね。ありがとう、もやさん」靄は元気そうに庭中を奔りまわりました。
 久々にもどったその家は、あいかわらずの憎しみと、あいかわらずの重くかなしい空気にみちていました。まだ立ち上がろうともせず、妃はそう大きくもない赤い屋根の家と馬小屋、朽ちかけた納屋とがらくたの置かれた庭を見わたしました。家の敷地を呪われた老木がかこみ、見上げても一片の空も見えません。すきまなく重なりあった枝が真昼でも陽のひかりを閉ざしているのです。森いちばんの呪いのかかった老木の枝のずいぶん高いところから、
「これは妃、いますぐ下へ降ります」
 従者が声をかけました。妃がその木を見上ると、枝に縛りつけた小屋の窓から彼が顔をのぞかせています。
「おはよう!」
 こんな時間でしたが、妃は魔法使いの流儀であいさつをしました。
 彼は枝にかけた蔓をつかって降りてきて、
「魔法がつかえたら、こんな苦労はしなくてもいいのですがね」
 そう言いました。
「母さんはもう起きてるのかしら?」
「ええ。もうとっくに。森をさまよって死んだ旅人をよみがえらせてダンスを・・・・」
「でも音楽は聴こえませんよ」
「このドングリを耳に」彼はポケットから魔法のドングリをひとつ取りだしました。「さあ、家の中へ」
 従者に案内されて家にはいると、魔女はボロ着のきれはしをあばらの骨にまとわりつかせた骸骨と社交のダンスを音もなくつづけています。妃はつい先ほど従者に手渡されたドングリを耳に入れました。ああ! それは地獄のメロディ。けして天国へはいることのない死人たちの苦痛とこの世への憎しみ、怒り、もがくような悲しみに同調する旋律とタッチ。まさに悪魔のしらべ。そのとき妃は殺したばかりのキツネや山猫の血をのんだことやこれ以上もう二度と思い出したくない過去のさまざまな黒い記憶を一瞬よみがえらせました。そしてドングリを耳からはずし、
「母さん!」
 そう叫びました。
「来たのは知っているし、来ることも知っていたさ」
 魔女は白骨となった死人と狂ったようにはげしいダンスをつづけながらそう応えました。そして背を下に、いちど死人の腕に身をゆだねた後、「だけどね・・・・」今度は腕をとられてくるっとまわってみせました。「ゼッタイに許すものか!」
「母さん!」
 妃はもういちど叫びました。するとダンスはいっそうの激しさを増し、そのうち部屋じゅうの家具や置物がおどりだしました。
「あはははは・・・・」
「あんまりだ!」
 堪りかねた従者がそう言うと、どこからともなく花瓶がとんできましました。眼のまえで陶器の花瓶がくだけるのを見、そしてそれが自分の頭にぶつかったことを知るまえにもうすでに彼は気をうしなっていました。庭であそんでいた靄が戸のすきまからやってきて隣の部屋へ彼を運びました。間もなく靄は戻ってきて妃の足元に・・・・妃は言いました、
「ええ。帰るわ」
 そのとき、
「最後にひとつだけ教えてあげるわよ、あんたの子供にはもう呪いがかかっているのさ!」
 と、魔女はひどく嬉しそうに言いました。「いひひひ・・・・」
「・・・・」
 妃は顔色をかえて家を出てゆきました。白くぼんやりうかんだ靄が妃のあとを追いかけてきて沼のほとりまで彼女を送りました。そのあと妃は泣きながら城へむかう長い夜道をひとり歩きはじめました。森をでたころ薔薇色に染まった田園の景色を涙でにじんだ瞳でみわたすと、妃はちいさな額に手をあて立ち止まりました。ほんの一瞬めまいを感じ、足がよろけ倒れそうになったからです。
 箒にのってとぶ魔女の姿や髑髏の祭壇、いじわるく笑う母の顔が眼のまえにうかびました。そして王様のやさしい顔がにわかにくもり、国じゅうの愛すべきすべての人々の瞳に無数のカラスたちが地上に降りてきて羽ばたきざわめくなんとも不吉な光景がうつるのを見ました。村々が焼けるさまや泣きさけぶ女と子どもたち、戦争と疫病、ききん、つみかさなる死体の山とそこに群がり肉をついばむカラスたち・・・・未来に起きるであろう悲惨な出来事を、このとき妃ははっきりと見たのです。



 妃はそれから重い病になりました。王様はそれでもわざと笑みをこしらえ、
「メリサはいつも元気そうだ。なにも心配することはない」
 そう言うと妃のつい傍まで来てベッドのかたわらに置かれたかざりけのない小椅子にすわりました。「どうか早く治ってほしい、どうか・・・・どうかお願いだ」
 すると妃はしろい顔でわらい、
「王様・・・・」と言いました。「王様。わたしたちが初めてあったその日のことを覚えていらっしゃいますか?」
「覚えているとも。あの日わたしは狩りの途中、道にまよって森をさまよっていた」
「あれは底なしの沼のほとりでしたわ。わたし、さびしいときいつもあの場所へゆきました。なぜかあの場所に立つとなつかしい思いでいっぱいになるのよ。なんでも大勢ひとが死んだ沼だと聞きましたが。それでもわたしにとっては母の家よりもあの場所のほうが好きでした。動物たちもよくやって来ましたし」
「わたしはひとめ見たときから妃、あなたの虜になった」
「ええ。それはわたしも・・・・同じです」
「・・・・」
「わたしは魔女の娘でした。それをあなたは・・・・なんて大胆な方かと思いましたわ」
「妃!」そう言って王様はもっと傍まで近づきました。「あなたしかいないんだ。わたしには、この世界に、ただあなたしかいないのです」
「嬉しいです。そう仰ってくださって。でもわたくし後悔もしておりますの。わたしのような者はけしてあなたにはふさわしくないことがようやく見えてきました。どうかこの国を守るためわたしを追放なさってください。きっと母もよろこぶかと・・・・」
「なにをいう。国は誰のものでもない。そしてこの国は愛しあう者たちすべての思いによってなりたっているのだ」
「・・・・」妃は瞳をおおきくひらきました。そしてか細いうでをのばし王様のまえにさしだしました。「わたくし、今もあなたへの気持ちはすこしもかわっていないですわ」
 王様は妃のすきとおるような白いうでをとても大事そうに胸にあてました。


                     つづく・・・・


散文(批評随筆小説等) 王女メリサ Copyright atsuchan69 2007-02-22 01:01:30
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