白衣の堕天使
Rin.


   一   秘密の楽園

二人の世界の入り口は
いつだってこの実験室
あなたはそっと私を呼んで
脱いだばかりの白衣を着せた
袖の長さが余っていて
なんだかとても不恰好なのだけど
秘密の実験にはそんなことどうだっていいよ、と
追い放たれた天使のように
あなたが屈託なく笑って言うものだから
なんだか本当に、そんなことはどうだってよくなってきた

調剤は目分量でも効けばいい
あなたは耳慣れない成分の名を
てのひらに書いて
もう全てを良くしてあげる、と囁く
中身を問わぬままの、アカズの棚
その隣にある実験台は
欠けたラベルを貼った瓶でごった返していた
長い長い薬品の名前
どこか遠い国の人の名前みたいだね
この液の名はルチフェルに「似ている
哲学者か、なんだかよく分からないけれど
どこかで聞いた、ちょっとだけ憧れたい名前

あなたのしなやかな指から
滑らかに押し出された瓶は
刺さった匙が傾いて
まるで風化した墓標
もしも世界が終わるなら
ねえ、これはあなたの分
錆びた匙をもう一本交差させて
私たちも小さく抱き合った

そう、この粉は麻薬の成分だよ
なんて、いつもどこかしらあやふやな瞳をしたあなたが言えば
それがたとえアミロースとアミロペクチの集合体だとしても
なんだか本当に、あやうい香りが立ちはじめる

秘密の実験
被験者はいつも私
でも全然怖くなくて
それどころかひたすら楽しくて
一緒にピペットを握ったりして
真っ二つに割ったりもした
尖った硝子で指を切っても
かたみに傷を舐めあっているうちに
いつしかそれは乾いてしまう
傷なんてここではそんなもので
付けたもの同士でなら簡単に癒しあえる

借りものの白衣には
いつのどんな成分かも知れない跡が
まるで抽象画みたいで
もう二人で何度この実験をしてきたのだろう
答えの分かっていることを、確かめるための実験
ちょっとだけ飛べそうなあなたの
あのしなやかな指で拡販された
濁ったクスリをひといきに飲めば
実験結果はまた正解で
もうなにもかもが霞んでいった

止まらない笑い
墜落しても、ここは楽園―――


   二   終わり

生命の数だけ世界がある
生命の数だけ終わりがある

始まりは恐ろしい
終わりを背負っているから
終わりは恐ろしい
終わり方が知れないから
そのあとが知れないから
静かな水を炎にかけて
やがて有が無になるように
終わりは恐ろしい
そのあとが知れないから

生命の数だけ世界がある
世界の数だけ終わりがある

偶然に始まった生命が
必然の終わりを恐れることの
なんと皮肉なことか

  
   三   ビーカーの中から世界を見ている

始まりが、遠すぎる過去になった日
ひとり勝手に、楽園の扉を開いた日
アカズの棚の隣にある実験台には
相変わらず瓶がたくさん並んでいて
幼い頃、母の鏡台からそっと拝借した
化粧水やら香水やらのように見えた

どこか暗く青い液体の瓶
星砂のような粒子が沈んだ瓶
脱いだ形のまま抜け殻のように押し黙っている白衣には
かすかにぬくもりが残っていて
もう馴染んだやりかたで私はそれを引っ掛けた

実験の続きを促すように、音を立てて瓶をあけると
あなたは美しく振り向いて言った
この瓶の液体同士は混ぜちゃだめだよ、とでもいう風に
教えるように ただただ甘く
僕らはいっしょにいちゃだめなんだよ、と

棚から無意識に取り出した500?ビーカーの
半ばくらいのメモリまで、私は涙をためてゆく
そこにあなたのが一滴、混ざり合ったけれど
何も反応を起こさなかった
同じ理由から生まれた雫だから、
でありますようにと
サイゴに祈るために目を閉じようとすると
あなたのいつになく哀しそうな
でもやはりあやふやな瞳と合った
そこにはあなたを堕とした宇宙が映っていた
あなたはそれくらい暗く、深く息を吸い込んで
私を小指くらいの大きさに押しつぶすと
ビーカー中に浸してしまった

私は私の一部のなかで
私はあのしなやかな指によって
いま、私の世界の終わりを見た
それでもこの硝子の向こうでは
あなたの世界は続いている
歪んだ視界の中で
あなたは私の熱を残していそうな白衣を拾い上げると
さっき開けたばかりの液体を調合した
きっともう決まっている、新しい被験者のため

白い背中が滲む
その向こう
歪んだ視界の奥の、アカズの棚
私は私の終わりの日
あの中に行くのだと確信した




  終わりは恐ろしい
  そのあとが見えないから
  されど終わりはやさしい
  終わらぬことの、なんと憂いことか




自由詩 白衣の堕天使 Copyright Rin. 2007-02-11 21:46:35
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