見えてきた友情について
結城 森士

 (再び偏った意見を述べるのかもしれない)
 「愛」とは明治時代に日本に輸入されてきた言葉だという。それまで「愛」というものを日本人は、「恋」「友情」「情け」「仁」「人情」などで使い分けてきたそうだ。僕は今回思いつきで、「利害関係で結ばれた友情」を考えてみた。

 最近心理学のテストを受けたのだが、僕はAC(adapted child=順応した子供)の数値が比較的高かった。ACとは心理学のエゴグラムなどで見かける用語である。人間には必ず3つの性格があるといわれ、一つは親、一つは大人、もう一つは子供、以上3つから成り立っているという説があるそうだ。正確には、

◎Parent
 ★CP=critical parent(批判的な親の心)
  良い面「理想・良心・正義感・責任感・権威・道徳的など」
  悪い面「非難・叱責・強制・権力・干渉・排他的・攻撃的など」
 ★NP=nurturl parent(養育的な親の心)
  良い面「思いやり・慰め・共感・同情・保護・寛容・許しなど」
  悪い面「過保護・甘やかし・沈黙・おせっかいなど」
◎Adult
 ★A=adult(大人の心)
  良い面「知性・理性・現実志向・冷静・感情抑制など」
  悪い面「自己中心性・科学万能主義・物質万能主義・自然無視・人間のコンピュータ化など」
◎Child
 ★FC=free child(自由な子供の心)
  良い面「天真らんまん・自然随順・自由な感情表現・直感力・創造力など」
  悪い面「衝動的・わがまま・傍若無人・無責任・調子にのるなど」
 ★AC=adapted child(順応した子供の心)
  良い面「がまん・妥協・感情抑制・慎重・他人の期待に添う努力・いい子など」
  悪い面「主体性の欠如・消極的・自己束縛・敵意温存・依存的など」

とのことだがACの悪い面に「依存的」という単語を見つけることができる。
 本来、ACの数値が高いということは、人間関係において慎重であり相手を尊重するため比較的敵を作らないタイプと思われる(一概にそうだとは言えないが比較的)。だがそのACの持つ「依存的」というのは一方で歪な人間関係を形成しかねない。だからそれは人間関係に何を求めるのかという議論を行う上で大きな問題になる。
 帰属意識が強く、鎌倉時代のご恩と奉公のような義理人情を重んじる特性でもあるのだが、依存の度が過ぎた場合、それはつまり、相手と自分との関係を特別なものにしたいという下心の表れだ。依存が強く出てしまうというのは相手に救ってもらいたいという欲求であり、言わば他力本願である。相手に尽くす一方で相手からの見返りを期待しているのである。

 では、利害で結ばれた人間関係というのはどんなものだろう。上昇志向の人間同士が出会い、お互いの良さと利用価値を見出し、切磋琢磨して競い合い、お互いにとって有益な関係。自分が相手を利用出来るなら意味があるし、一緒にいても何の意味も無ければ一緒にいなければ良いという割り切った考えをすれば、それは依存とは無縁である。割り切ったとは言うが、別に相手を傷つける必要はどこにも無い。ただ、帰属意識を持たないことだ。そうすれば、相手と一緒にいる必然性は消え、割り切った関係が生まれる。しかしそういう本音で接する部分から本物の友情関係が生まれることもあるだろう。その時に初めて相手の感情に沿うことも出来る。

 僕にとって依存的な人間関係とは、理想的ではあるが不自然に思える。依存的な人間に必要なのは、単純化され、自立した自然な人間関係を築くことだ。

 色んな友情があるとは思う。慰めあう友人も必要だろう。
ただ僕のような慰めることを求めてしまう人間にとって、本物の友情とは、本来作ろうとして作るものでも、待ち焦がれて作るものでも、求めて作るものでもなく、損得の利害関係の中で自然と生まれていくものなのかもしれない。


唯一、理解し合える気がした大学の友人
孤独な軟派師K.Kへ感謝を込めて。



散文(批評随筆小説等) 見えてきた友情について Copyright 結城 森士 2007-01-23 23:58:12
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