詩と詩論(その一)
生田 稔

 詩と詩論
〔序〕
 27のとき詩人になりたいと思い立った。その頃小説も短歌も翻訳もやっていたが、最もなりたかったのが詩を書く人であつた。詩を熱心に読むことが好きだつたせいでもあろう。
 大学へ入りたいと3年の浪人のやむなきであったが、その三年目にエドモンド・ブランデンさんの吹き込んだ“雲雀(ひばり)によせて”と”つれなき手弱女(たおやめ)”の二つの詩朗読レコードをいくども幾度も聴いた。一日に一度ではなかったから365日として1000回は聴いたのではなかろうか,隅々まで暗誦していた。
 この二つの英詩が、私の詩を愛するきっかけとなった。マケドニアのアレクサンダー大王は、“イーリアス”の一万行何がしの全文を暗誦していたというし。日本よりも欧米のほうが詩人は大切にされるということもきいたことがある。日本では詩人は食えない、中原中也や大手拓次また小熊秀雄、知っているかぎり、あまり懐の豊かだった詩人は少ない。
 英文科を中退した私は、個人的に翻訳を勉強して食っていこうなどと考えていたが、そうするうちにクリスチャンとなり、のめり込み三十のとき全時間の伝道奉仕者となった。それ以来永い間文学とはお別れになってしまった。病を得て入院したとき、自分には基礎学力がかけていることを痛感し、大学通信教育を受けた。2年間教養学部の学問に入門を果たした。4年その病院にいた。手当たり次第に本を読んだ。病院で同じ教会に属する今の妻に出会い結婚。それからまた伝道の生活が始まった.妻は平凡だが気持の可愛い娘で、今まで27年間共に福音のためあらゆる努力をした。
 病気のため結婚にひつ込じあんの、私を励ますため、「これから共に助けあつて暮らしてもいいですよ」と手紙をくれた彼女に励まされて43歳のとき結婚生活に入った。長い独身生活で、また入院のぶらぶら生活を改善するには大変な努力が必要であった。妻の励ましと協力がなかったら、この70歳まで生きていることさえできなかっただろう。
 60歳になるまで、福音伝道をかっきりとつづけた。息子が46歳で生まれ。息子にも福音にそったクリスチャンになるよう厳しく育てた、息子には自分のは親からしてもらえなかった教育の面に気をつけて育てた。しかし親からもらった愛はもっと沢山与えようと努力した。子供の不幸は親の不幸である。妻と子これは男にとって最も大切な宝物である。
 63歳からまた前からやりたかった詩を書き始めた。こう書いてくると、やすやすと努力できたように見えるかも知れぬが、43歳から63歳も度々倒れ絶望し貧しく、しかし妻と共に起き上がり、泣き笑い、楽しかったときもあり。しかし妻はとても明るい、そして強い。私はひそかに聖書のルツ記のルツを彼女に当てはめている。
 その後の詩は妻や子そして仲間のクリスチャンについて自然についてのものが多い。ここまで書いてこれがこの詩論のイントロダクシヨンとなる。


(1)
 詩学と詩論、前者はアリストテレス後者はホラチウスの作である。アリストテレスのものは相当難解なのではないかとも思う。とにかく両者は詩を読み書くについて読んでおくのがよいように思う。このような書をかいているのであるからもっとこのようなものも読み込んで解説してもよいのではないかともおもわれるが、書名を挙げるに留める。
 詩とは何か、そう考える若者乙女、そんな人々は多いと思う。私は近頃詩とは、生活の一部であると考えるようになった、全ての人は人間であるゆえに詩とは無縁ではありえない、詩が音楽と無関係ではありえないように、詩は人の生活と結びついている。
詩をかきたいという何がしかの衝動を少しでも覚えない人はいないのではないかとわたしは思う。そんな余裕はない、暇はない、関心がないそういう人はあるが、鼻歌の一つも唄ったことのない人はいまい。
 私自身は若い頃盛んに詩を製作していた頃、人の詩を尊敬できなかった。それは同人の仲間の詩でもあったし、とにかく詩をかきその詩が認められることをのみ発表するときは考えていた。未熟であったのである。でも未熟なな者は未熟でよく、そのことに魅力があるのである。その頃は詩論なんてもの書けまいし、書いても経験の不足から舌足らずのものになるかもしれない。この文は、メビウスリングのどこかのコラムに発表する予定であるが、やはり詩についてであるから詩投稿城に出すことにした。ここには多くの詩人が集まっておられるが、私のように70歳というようなものは少なかろう。だからこの老人の意見もきいて詩にたいして立ち向かっていただきたいと思うのである
 投稿作の題名をいつもずーと追っていくのであるが、こい恋愛に関る作品が多い。人として、若ければ最も大切なことである。「命短し恋せよ乙女」というわけであるし。乙女には男性がいなければならない。まさに盗人の種は尽きても恋人の種は尽きないかも知れない。
 でも70歳にもなると、恋は無理である。私はしきりに妻の事を詩にしている。今までの人生には懐かしの涙は出ても、若々しい恋の泉はもうない。
最近は人の詩がとても面白いし興味深い、筑摩書房刊文学全集の現代詩人集からとてもすばらしい感銘を受ける。食い入るように読み込んでいる自分。参考にと買ってみたこの詩集なのだが。手始めとしてこれから、とく感じたものを取り上げ私と、そしてこれを読んでくださる方のカタルシスあるいはエランビタールとしたい。いずれ数え上げてみるが数十人のこの日本を代表する詩人たちを取り上げるのは、やりがいのある仕事である。詩人として出発するには詩を沢山読むことである。私は小説にかなり力をいれた時期があったが、人をだます事には苛責を覚えるし、その巧みなプロットの組み立て方をやってみる気力がない。人として残された時間をこの仕事に割り振ってくださった神に感謝す。



(2)
  筑摩刊現代詩集は指折り勘定してみると、75人の詩人が上げられている。知っている詩人と、そうでない詩人も多く、この詩集買い求めて間もなくはなかなか没入できないほど、筑摩全集独特のページ節約のための読みにくさがあった。個人詩集のような優雅な紙面編集は多くの詩人を取り上げるにはむかず、こういうやり方でも仕方があるまい。
 河井酔名、伊良子清白、横瀬夜雨、川路柳虹、服部嘉香、福士幸次郎、三富朽葉この七人が巻頭からこの順で並んでいる。これらの詩人に馴染みのある方がおられたら余程詩に造詣の深い方であろう。私も文学史その他のもので知った以外はこれらの詩人の詩には接したことはない。この七人の次にやっと西條八十と出て、それからは知らない人はちょいちょいということになってゆく。
 ではこれらの詩人から始める、つまり順を追って鑑賞してゆくことにしたい、自分で詩人を選ばないで、こんな形で詩論を展開することには少しだけ後ろめたさがあるが、時間をかけ煩雑さを考えれば、これでよい。各詩人につき2・3編の詩を取り上げたい。
 ★河井酔名 
 かわいすいめい とお読みするするが名の酔名は少々このパソコンでは打ち込み不可能な字である。草冠が名にはあり、手書きでもその漢字の備蓄がない。15編の詩が載せられている。一読古風な感じがする。漢詩調である。今の若い詩人が、漢詩もどきの詩を書いてもこれだけの風格は出せまい。明治期後半の「文庫」派の詩人の一人である。文学史についての記述は極力避けたい、文学史によって詩人を理解することは少し邪道のように思える。詩は人そのものから流れ出るのであって、当時の流行や風潮から考え味わうものではなかろう。彼の詩を引用してみよう、
 病あらば
 詩に生くべし
 家なくば
 詩に住むべし

 恋を失はば
 詩に求むべし
 禍ひ来たらば
 詩に慰むべし

 心さびしき時は
 詩を祭るべし
 朝に夕に
 詩をうたうべし 
 「詩の道」と題するこの詩、詩をかく理由を端的に率直におしえている。わたしたちは朝に夕に詩をうたうべきである。つまり人はパンのみによって生きるのではない。パンを食べつつうたうのである。酒を呑むときも人はうたう。
この河井酔名さんの詩を読みつつ, 「われはこの詩人なり。この詩人はわれなり。
この詩人は幸いなり。」と思った。
   さらにもう一つこの方の詩をのせよう
    
「ゆずり葉」
   
   子供達よ
   これは譲り葉の木です
   この譲り葉は
   新しい葉が出来ると無造作に落ちる
   新しい葉に命を譲って―――
   
   子供達よ
   お前達は何を欲しがらないでも
   凡てのものがお前たちに譲られるのです
   太陽の回るかぎり
   護られものは絶えません
   
   輝ける大都会も
   そっくりお前たちが譲り受けるのです
   読みきれないほどの書物も
   みんなお前たちの手に受け取るのです
   幸福なる子供達よ
   お前たちの手はまだ小さいけれどーーー

   世のお父さん、お母さんたちは
   何一つ持ってゆかない
   みんなお前たちに譲ってゆくために
   いのちあるもの、よいもの、美しいものを
   一生懸命に造っています

   今、お前たちはきが附かないけれど
   ひとりでにいのちは延びる
   鳥のようにうたひ
   花のように笑っている間に
   気が附いてきます
   そしたら子供達よ
   もう一度、譲り葉の木の下に立って
   譲り葉を見るときが来るでせう

 中学生の英語の教科書に、「木の葉のフレディー」という短編が載っていたがこの詩の中心思想と同じものを伝えている。
  「世のお父さん、お母さんたちは
   何一つ持ってゆかない
   みんなお前たちに譲ってゆくために
   いのちあるもの、よいもの、美しいものを
   一生懸命に造っています」
 聖書のヨブは言う、「裸で生まれ、裸でかえつて行く、死ぬときには何一つ携えてはいけない」、同じ書のソロモンも同じようなことを嘆く。しかしアブラハムは遥かに遠い神の都を望みみたという。人はそれぞれに感慨を持っている。ゲーテは現世の恋に心を託して16歳の少女に恋したという、その時70歳だったとか。でもこれを笑うなかれ。恋を尊重しない人は一人もいまい。若くとも老いても人の心はロマンで満ちている。
 いや恋愛のことに論をすすめまじ。私もまた70歳、詩について一書を成さんんとしている。最後に「老境」という詩を紹介しよう。

  吾老いぬれど
  仙家に入らず
  茶烟軽く
  紅塵の裡に住む
   
  柴門(さいもん)を守るは  
  吾家の月
  竹窓に吹くは
  隣家の風

  人来たれば
  迎えて会う
  人去れば
  吾座にもどる
  
  眠り足りて
  夢なく
  起きて
  倦むことなし

  晝には
  晝にかくことあり
  夜には
  夜に語ることあり

  世にあずけたる
  わが壽(いのち)は
  時来たらば
  世に返さむ
  
  草の生命は
  わが命より短く
  樹の年輪は
  わが年輪より多し

  わが生命の一瞬
  心眼明らかに
  天人の五衰は問わず
 
 柴門(さいもん)=柴で作った門、老境にふさわしい質素な家の門である。五衰=仏教で言う天人に死がちかずくと表れる五つの衰相を言う。衣服が垢で汚れる、頭にかぶっている花の冠がしおれる、体が臭くなる、わきの下から汗が流れる、自らの地位を楽しまなくなる。ヘブライの教え、つまり後のキリスト教に取り入れられた聖書「伝道の書」にはこうある。「 太陽と光と月と星が暗くなり,雲が帰って来て,その後に豪雨[が降り出す]前に その日には,家を守る者たちは震え,活力のある男たちはかがみ,粉をひく女たちは自分たちが数少なくなったので働くことをやめ,窓で見ている婦人たちは暗くなったことに気づいた。ちまたへの扉は閉ざされ臼の音も低くなり,人は鳥の声に起き上がり,歌の娘たちすべても低い音に聞こえる。 さらに,彼らはただ高いものを怖がり,その道には怖ろしいものがある。そして,アーモンドの木は花を咲かせ,ばったは身を引きずって歩き,ふうちょうぼくの実ははじける。それは,人が自分の永続する家へと歩いており,泣き叫ぶ者たちがちまたを歩き回ったからである。 銀の綱が取り除かれ,黄金の鉢が砕かれ,泉の傍らのかめが壊され,水溜めの水車が砕かれてしまう前に。そのとき,塵はかつてそうであったように地に帰り,霊もこれをお与えになった[まことの]神のもとに帰る。」

「アーモンドの木は花を咲かせ」は頭髪が白くなることを意味するが、インドにも頭にかぶる花の冠がしおれるという類似の表現があることは面白い。この詩人には難解晦渋な詩はなく、漢詩を引き継ぎながらよく西欧にも近づく傾向がみられる。詩人は明治7年の生まれというから、うべなることである。そして筑摩現代詩集の先頭に上げられているゆえ、現代詩の始まりを飾る詩人といえよう。
これで河井酔名氏を終わる。

★伊良子(いらこ)清(せい)白(はく)
   この方の詩をざっと読んでみたがついてゆけない気持に駆られた。どなたもそうなんだがはじめて面と向かうと、さっぱり戸惑う。この詩一体何処が良いのだ。伊良子氏は藤村や犀星のようなわかりやすいものではなかった。この午後、ロックを掛けてみたら、この方の氏の秘密がわかりかけた。つまり、よういには計り知れれないリズムがあることに気づいた。読みすすむうちに次第に虜になる魅力なのだ。調べてみると非常に単調なるリズムである。 
「漂白」という先頭の詩をみてみよう。

蓆(むしろ)戸(と)に
秋風吹いて
河添の旅籠屋寂し

哀れなる旅の男は
夕暮れの空を眺めて
いと低く歌いはじめぬ

亡母(なきはは)は
處(おと)女(め)となりて
白き額(ぬか)つきに現はれ

亡父(なきちち)は
童子(わらは)となりて
圓(まろ)き肩銀河を渡る斷
 
柳洩る
夜の河白く
河越えて煙(けぶり)の小野に
かすかなる笛の音ありて
旅人の胸に觸れたり

故郷(ふるさと)の
谷間の歌は
續つつ斷えつつ哀(かな)し
大空の返(こだ)響(ま)の音と
地の底のうめきの聲と
交わりて調(しらべ)は深し

旅人に
母はやどりぬ
若人(わかひと)に父は降れり
小野の煙(けぶり)の中に
かすかなる節は残れり

旅人は
歌い続けぬ
嬰子の昔にかへり
微笑みて歌いつつあり

 これらの各々の連は初めから全て5・7 5・7の韻を踏むi。その一見すると単調にも思えるリズムが独特な印象をこの詩に与える。筆者は和歌に優れていたのかも知れない。その職業は医師である。詩は少しも難解ではない、しかしいくども読み込むと自ずから良さが生ずる。詩とはそういうものではなかろうか。詩人の常として、各詩人は偏見によって詩をつくる、それは芸術に常なることではないか。宮沢賢治は生くる間、権威からは一顧だにされなかったという。わたしも彼の詩に対して偏見を持つ.面白くない詩だと。伊良子氏も一読そうであった。しかし彼は大和風な内容の、簡潔にして澄める詩であると思う。「孔雀船」という詩集が残るのみらしいが、いかにも明治の詩人らしい雰囲気を感じさせるではないか。先の河井氏は西洋風傾向を内部にもつに反し,この詩人は純大和風であると先ほどからも、その詩を眺めつつ思ったのである。この詩をよく読みこみ、そして感動を得よ。躍動と、妙なる調べを汲み取られよ。この詩人を甦らせ、今もなお生くるを見よ。自らの偏見を取り外し、新しい詩の世界に入ってゆけ。では彼の別の詩に移ろう。
 全部で8篇の詩が上げられているが、そのうちからとなると取捨に苦しい。読者の安易さに組して、、4連からなる詩を上げるに留める。
    秋和の里
月に沈める白菊の
秋冷(すさ)まじき影を見て
千曲(ちくま)少女(おとめ)のたましいひの
ぬけかいでたるこゝちちせる

佐久の平らの片ほとり
秋和の里に霜やおく
酒うる家のさヾめきに
まじる夕べの雁の声

蓼科山の彼方にぞ
年経(ふ)るおろち棲むといへ
月はろばろとうかびいで
八谷の奥も照らすかな

旅路はるけくさまよえば
破れし衣の寒けきに
こよひ朗らのそらにして
いとヾし心痛むかな

 どの部分を最も感じたかと言えと言われるなら、私も戸惑う。しいて言うならば終連に最も惹かれた。旅路の果てを歌うのであろう,“いとどし心痛むかな”と結んでいるところに余韻ありて良し。逆にたどると、“酒うる家のさざめきに、まじる夕べの雁の声”のところも音声を描出しているのが響く。もうこんな詩をつくる詩人は現代にはまれである。形而上学などといい、意味を汲むのが難しい詩が多くなった。世情人情にとることに詰まり、異常な世界に入っていこうとするからだろう。でも詩をかき詩を読むことにつとめて携わることは、なんと言っても健康に良い。酒や遊里や恋愛をうたわずとも良い、私は不快なとき、苦しいときペンと紙に述べる。詩はよき友である。現実に失望しても、心は詩の中で心地よく遊ぶ。これまでそのような詩作をしてきた。でき上がった詩は心の骨董品のようである。
 朗誦にふさわしい詩は、心の喜びである。そのようにして詩に向う人は喜びや楽しみのほか何も詩に求めない人である。その人は、相対的でなく絶対的詩人である。
 また芸術とはそのようなものであろう。孔子は楽しむ人には誰も勝てないと教える。しかし作品を発表することを敢えてしり込みすることもあるまい。喜びを共にするべきだと感じるべき。だからスポーツの一種だと考えることも良し、キャッチボールやバッティングと同じことではないか。詩人という特殊な人がいるわけでなく、詩芸術という一つのジャンルがあるということで、この書物が伝える現代詩人は明治以来の新しい新体詩というよりは、和歌や漢詩から分かれ出でた流れうくむ詩人達なのである。
 拙作を一つ紹介して、伊良子氏を終わる。

 寒き空見上げて

寒空に見ゆ
神独り何なしたまふ
暗闇のいやはてに住み
ともしきにあらずに

妻ととも帰る路
街路にあかあかと灯り 
空たかく風そよ吹き渡り
神笑いたまうに

銀鼠、うす白き朝
野へ稼ぎにいず
その夫(つま)年老いて
二人おば神支えたまふ

稼ぎためし価もて
鼠の夫婦(めおと)家を建つ
銀鼠娘のころに
思いおりし小さき家を

鼠の国の湖(うみ)の面(も)に
赤き陽のぼりて
家建ち上がりし日
お礼として花供う



散文(批評随筆小説等) 詩と詩論(その一) Copyright 生田 稔 2007-01-23 10:54:35
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