三匹が斬る〆 現代詩フォーラムランダム道中千人斬りの巻 其の弐百弐拾壱〜其の弐百弐拾七
熊髭b


さてと。
最近、詩を読んでいて、「信頼」ということが気にかかる。
あとは、アクセス。
このひとはどういう世界を生きていて、
どこへ向かってアクセスしていて
どういったものを信頼しているのか。
希求、飛躍、断絶、シニカル、ダダ、迷い、祈り、独白、告白、謎、笑い・・・
どんなことでもいいのだが、
本当にそのひとが体現している「信頼」への軌跡に触れたとき
俺は出会う。
その出会いの体験は、有難いことだと思う。


何に信頼を寄せているかで
どこにアクセスしているのかが見えてきて
そのひとの世界が見える。
カチリとしたものに触れる。


俺は特別詩を読む人間ではないし
そんなに詩も必要としていない。
ただ、詩性みたいなものは
森羅万象に溢れていて
言葉ではなくても
いや、言葉以上に暮らしの中で出会う
そういったものたちを何よりも大切にしたい。
そういったものの中のひとつとして
詩を読んでいる。


ランダムで詩を読んでいると
自分から自分へ発信専用でアクセスしている作品に多いことに気がつく。
自分が自分にアクセスする。
これは読んでいて結構つらい。
とてもさみしい風景だ。
逆に言うと、信頼すべき対象に出会いきれていない、
自分以外のものと向き合って格闘する過程を経ていない、
「通過儀礼」を経ていない言葉たちが溢れている。


あるいは、自分の範囲を決めて
そのなかのものを大切にする。
その中でのストーリーを深化させ
外側のものから脅かされないように、壊れないように
大事に自己を防衛する。
それは、自己肯定であれ、自己批判であれ、自己昇華であれ
自分自身を純化していくループに入っていく。
他者からの手垢のつかない、顔。
きれいである。読者も居心地がいいのである。
なぜならば、そういった純化された言葉は
読み手を脅かすことは決してない。
読み手もそういうものを好む。遠くから。
アナタノ言葉ハ、手垢ノツカナイ匿名ノ海ノ中デ好マレル。


しかし、世界は問答無用で手垢まみれなのだ。
それをさも手垢で染まっていないように振舞う。
さみしい風景である。
手垢まみれにアクセスせずに
個人を分断し、それぞれの幸福を純化させ増幅させるような方向に
言葉を水増しさせる。
すなわちそれが匿名化ということだ。


世界にアクセスできない個人が
匿名的世界を作り出そうとしている。
きみのカチリとした、
手垢まみれの中で輝く世界の「信頼」を読みたい。
俺のこの批評はその一点をして、
批評精神を宿らせていたいと思っている。


今回はランダムをちょっと離れます。
目に付いたおすすめからおすすめへ飛んでみて
気になったものを書きとめてみます。



□其の弐百弐拾壱

『ハピネス』 いとう  ★★☆☆☆
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=138

俺は、いとうさんの詩は結構好きなほうだ。(というほどあんまり読んでいないのだけど)けど、どこか甘さがどうしても鼻にかかる作品が多いことも事実。この「ハピネス」もどちらかというと、現実の重さが、ハピネスという繰り返される言葉に絡めとられている印象。おそらく読者は、このハピネスの繰り返しに、光を見る。そして、免罪という名の陶酔を味わうだろう。それだけの力がこの詩にはある。しかし、格闘の現場は、現実のほうであり、その現実の前に、この詩は、過度に光だ。あまりにも流暢過ぎる、雄弁すぎることが、言葉の前で立ち止まらせてはくれなかった。俺はこの詩は、わざと核心をかわしたような気がする。



□其の弐百弐拾弐

『下手くそ』 chori  ★★☆☆☆
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=90493

一読してうまいと思う。よどみない。けれどなんだかひとごと。風景も人物も事件も。きっと器用なんだろう。よくデジカメで、日常の風景を鮮明に切り取る写真とかを見るけど、自分自身が風景に身をおいた結果、写真を撮るのではなく、写真を撮るために風景を見る、といった印象。きっと器用なんだ。けれども、これが現実なのかもしれない。911のこともラブホテルに住みたいことも、知らない女の子を抱くことも、ユキちゃんが生きていた実感も、choriくんは浮遊していることを必死で繋ぎ止めるかのように書く。(浮遊していることを浮遊していないかのように書くのとは違う)でも俺はどうしてもデジカメのようなこの現実をそのまま提示することに、あまり共感はしない。おそらく、言葉をもっと抱えて沈む。沈黙。そのさまざまな世界にある、喪の通過儀礼の痕跡を、海に浮かぶ船の碇を、俺はこの詩からたどれなかったのだろう。



□其の弐百弐拾参

『ルーツ』 イシダユーリ ★★★★☆
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=67667

全身だ。ユーリさんの詩は、叫びのときもあれば、ひきちぎられているときもあれば、静けさを帯びているときもある。しかし、すべて全身だ。彼女はおそらく自分自身の器官の一つ一つを信頼している、そして同時に燃やそうとしている。その相反する運動のハザマで言葉が軋みをあげながら生まれる。この詩は、静けさを帯びている。>わたしたちはフィルムだった >わたしたちはわたしたちを二乗する 自己の増幅に耳をふさぎながら、でもそんな自分をぎりぎりで肯定しながら、か細い他者を全身で手繰り寄せる。おそらく、彼女の詩にはほんとうしかない。でも俺は、読んでいてそれが時々つらくなる。



□其の弐百弐拾四

こもん作品を読んでの印象(未詩独白なので)  
http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=1000&from=myframe2.php%3Fhid%3D1852

こもんちゃんの詩を読んでいると、ずっときみを失い続けていることに気がつく。だからずっときみに語りかけるのだ。彼女の世界は2人称の範囲にとどまり続ける。しかし、その2人称の世界の狭間に、さまざまなものたちが入り込んでくる。投影されたリアルだ。1人称のリアル。そう、正確には世界は彼女の1人称だ。距離が見えないことで逆に、距離を描き出している。きみが見えないことで、きみを描き出している。俺は、どうもきみを失調しつづけることで、自己を保とうとしているようにも思えるのだ。きみに踏みとどまることはしない。なぜだろう?



□其の弐百弐拾五

金(キム) 馬野幹  ★★☆☆☆
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=62375

幹さんの詩を読んでいて思うことは、すごく手垢がついているということだ。自分自身に。これはすごく大切なことだと思う。その手垢のつき方は、他者へと波及する。その真骨頂がこの作品に現れている。他者に自分を帯びさせる、のか、他者が自分を帯びているのか、これはぎりぎりの格闘である。その格闘の末、ぎりぎりこれだけです、という部分が詩となる。しかし、この詩を読んで思うのは、どうしても自分オーラの出方が、他者性を帯びる方向に出すぎていないか、という操作性の問題である。おそらく語りのひとなのだと思う。聴くよりも語れ、自分自身の存在を語ることで成り立たせている。世界を語ることで支えている。しかし、とも俺は思う。これはぎりぎりのところだ。ぎりぎりのところでこの詩は、一見他者性を帯びながらも、自分自身へとアクセスを傾けている詩のような気がするのだ。その認識方法に対する批評である。



□其の弐百弐拾六

就職支援センターのこと 吉田ぐんじょう  ★☆☆☆☆
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=99183

狭間の詩だと思う。直視することがしんどいとき(それは本当にしんどいだけではなく、見ようとしなければしんどくはならないという意味も含めて)ひとは狭間に目を向ける。物語のアクセスは、デイドリームと現実を往来し、いつの間にかデイドリームが現実に摩り替わる。そして、したり顔で座りはじめる。気がつくとふっと異空間が日常の顔をし始める。問題は、それがひやりとしたものを突きつけているか、そこに逃げ込むのか、という点が批評の対象となる。この詩の場合、ひやりとしたものはない。異次元がいつのまにか日常に同化していく。異次元は日常との対比であってこそ異次元としての根拠を持つのであり、それを失ってしまっては、ひたすらカタルシスに向かう。日常のとりかたがしんどい世の中になっている。他者との距離にもみんな戸惑っている。言葉が帯びている世界も、言葉を手渡すべき相手も見えない。だから狭間に活路を見出そうとする。そして読み手も狭間に言葉を求める。しかし、現実は確実に事実としてある。眼次第では、狭間どころではない問題を帯びている。では、どうやってその現実をあぶりだしていくのか。自分自身のアクセスは本当にそれでいいのだろうかという、不断なき問いかけの連続。そのことが言葉に問われている。



□其の弐百弐拾七

★子どもたちへの手紙 原口昇平  ★★★☆☆
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=97467

昇平ちゃんのは、詩ではなく、あえてこれを選んでみる(だって詩は難しいから)。教育基本法が改悪された。俺は連日多くの人たちが国会前に座り込んだり、ヒューマンチェーンをしたり、サウンドデモをしている様子は知っていた。知り合いの何人かはそういう行動に参加し、その様子をブログなどで伝え聞いていた。東京にいればおそらく俺は国会に行っていたと思う。しかし、それは言い訳にはならない。鹿児島からも青森からも、仕事なんか関係なく、直接自分自身の考えを行動に移した人々がいる。俺は、地元で抱えている別の住民運動もあって、教育基本法改悪には行動を移せなかった。世界はさまざまなことの複合体でできているため、すべてに関わることができないことは承知だ。しかし、今でも俺は、きちんと自分自身の精一杯の自己表現を、この問題に注げなかったことに悔いている。この問題を頭で捉えてはいけない。子どもの問題という狭い範囲で見てはいけない。ひとの根幹をゆさぶる、極めて身体的な問題である。同じような根幹的問題として9条問題があるが、9条改悪に対してはすべてを投げうってでも、行動を起こしたいと思っている。ほんとだよ、自分物語すら語れなくなってしまうかもしれないとき、自分物語に拘泥している場合じゃないくらいの眼と精神と足が、俺らにはもっと必要だ。俺は昇平ちゃんと、個人ばかりが肥大した文脈の話ではなく、個人丸ごと変えていってしまうようなパワーについて、そのときどのように世界にアクセスして、暮らしや表現はどういう行動を作っていくべきなのか、ということについて、前から話をしたいと思っている。詩を描くとき、今の時代を、社会を、どのように照射して、それを炙り出していくのか。そのことに照準を合わしている数少ない詩人が原口昇平である。詩は難しいし、抽象的だけどね。あ、これは私信だな(笑)


散文(批評随筆小説等) 三匹が斬る〆 現代詩フォーラムランダム道中千人斬りの巻 其の弐百弐拾壱〜其の弐百弐拾七 Copyright 熊髭b 2007-01-11 21:23:28
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