アルルカン/umineko
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- たりぽん(大理 奔) 
- あおば 
- るか 
- 藍静 
アルルカン、想像を掻き立てる響きです。
- とうどうせいら 
批評なのか談話なのかよくわかんないんですが。。。

一応最後がすごく好きなのでポイントを入れるのですが、
はじめ2連がちょっとわからなかったです。
>自らを
>道化に例える
っていうのがどういうものか、例が浮かばなかったので。
道化にたとえるってどういう意味なのかもよくわからない。
苦しい生き方の反対をさしているのはなんとなくわかる程度です。

冬眠のくだり、
>思い出を
>胸に満たして
>私は深く沈んでいく
ここは、
uminekoさんらしい独創的な表現でとてもいいなと思いました。
冬眠することと、沈むという言葉が、ふつうはない取り合わせだと思うので。
あと、最終行の、
>私
>こんなにくるしいよ
これも。

個人的な考えなんだけど、冬眠する自分の生き方に、
大切なこころもちがあるなら、
他の人の表現に対する否定? 比較? を、
持ってこなくていいんじゃないかなあ、と。。。
冬眠する生き方にも魅力があるっていうことを読者が理解すれば、
道化的表現と比較することは、
自然に読者自身がするんじゃないかなあと思うので。
でも多分わたしの思考(Aを深く語ればBのことも自然にいつかわかってくれるであろう)は日本人的な考えで、
うみねこさんの場合は欧米的な思考、
他者との対比を持ってきつつ語る(AはBとは違うということをはっきり言わねばひとはわからないであろう)ということが、
ふつうになじんで習慣化してしまっているのだろうと思ったりもするのです。
いろんな詩に見かけるので。うみねこさんにお会いした時、
会話でもそうだなあと思いました。
Bという事実がある、っていうことを知らない人や、想像できない人には、
意味のない話法なんですけど、
知ってる人には意味は感じられるのでしょう。
たとえていうと
「真央ちゃんは確かにかわいいが自分はミキティがすきだとあえて言う」
っていう話法をよくうみねこさんは使われるのですが、
それは真央ちゃんを知らない人にとっては、
「ミキティって人がどのくらいすばらしいかって話だけでもいいのに?」
となってしまう。のです。
でも、真央ちゃんを知ってる人にとっては、
「そうそう、
ミキティは真央ちゃんにはない魅力があるんだよね!」
ってなるんですよね(ノ_・)
だからどっちの読者層を優先するかによって書き方って変わるんだなとか思ったのでした。。。

詩の感想なのかどうかわかりませんがなんとなく発見しました。
- ルナク 
- LEO 
 
作者より:
せいらさんコメントたくさんありがとう。お返事を自分のサイトの方に書きました。
みなさんも、よろしければ。読んでくれてありがとう。

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