在り方を成立させる技術について/いとう
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 恋月 ぴの 
詩と自分とのポジション(詩の中に自分が在るのか、自分の中に詩が在るのか、自分を主体としてみるか客観的に見られるのか)を問われているのかなと読後に感じました。祝婚歌は好きな詩なので何度も読んでいますが、そのような冷静な視線で読んだことは正直在りませんでした。
自分的にちょっと考えているところがあり、いとうさんよりヒントを頂戴した気がします。ただ、「現代詩」である必要があるのかって思いも巡ってきます。とても参考になりました。ありがとうございます
- 岡部淳太郎 
- たりぽん(大理 奔) 
なんか自分はまだまだだなと思いました。
- アマル・シャタカ 
- みつべえ 
- かおる 
- 銀猫 
- 木葉 揺 
- 窪ワタル 
- ワタナbシンゴ 
- 降旗 りの 
- 竜一郎 
- ふるる 
詩を、何かの「手段」にしたくないなあと思っています。
「伝える」「自己表現」「認められる」etc。そのどれにも「使い」たくないです。石ころのように存在し、石ころのように見られたいです。あるいは神様へのひっそりとしたお供え物。誰が置いたかわからない。でも、書くという行為自体、何らかのために「使っている」と見られる。自分もそう見る。どうすれば「手段」にしなくてすむのか、その方法は今は分かりません。どうしてそう思うのかもよく分かってないので・・・。ああ、何か、詩を「尊敬する、すごく偉い人」みたいに思っているのかも。長々とすみません。
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- 森川マサハル
「詩」という言葉が何らかの「記号」であるなら、例えばそれを「野球」という言葉に置き換えたとき
論旨がよりよくわかるような気がしました。例えば、ですよ。
プロ野球の野村監督を見ているような気がします。
(いや、なんとなくそんな理解の仕方もあっていいのかなと思いましたので。これ自体、詩に対する冒涜なのでしょうか。)
「野球に対して失礼だ」「自分にとって野球とはなにか」「自分に野球をやる資格はあるのか」
という姿勢はまさしく野村監督のそれ。それが彼の考える「野球道」なのだろう。その向き合い方。
一方、新庄、清原に対して監督はかなり手厳しい。「あれはタレントじゃ!」「茶髪、ピアス、けしからん」「野球をなめとる!」云々。苦笑いする新庄・清原が目に浮かぶ。
たしかにそういう「向き合い方」が良いという「野村的野球」のファンは沢山いるでしょう。野球とは何かみたいな。野球と詩を同列にするな、と叱られるかもしれませんが。
本題。
メッセージを伝えるために「詩」を使っちゃいけない、というところだけがどうしてもわからない。
「詩」はそんなもんじゃない、とはたして言えるのか。あらゆるものが複雑化する時代の中で、伝えたいことが「言葉」そのものを超えてしまっているとき、人は「詩」を伝達手段として使うこともあるのではないのかな。
 
作者より:
>Yockさん

「現代詩」である必要性について考えることは、
自分の作品が明治以降の日本の詩の歴史とどうつながっているかを考えることだと思っています。


>みさとさん

>>どうして公表するのかというと、人に伝えたいからではないの

でしょうか。伝えなくていいものであれば、何も形にしなくても
いいのではないかとも思います。

そのとおりだと思います。
それを踏まえて、伝えるために何故「詩」という形式を選択するのか
伝えるために「詩」を使っていいのか、資格はあるのかという(自分への)問いだったりします。
伝えるためだけなら、「詩」じゃなくてもかまわないですよね?
だからこそ、すべての芸術に、「伝える」以上、あるいは以外の、意義があると思っています。
そしてだからこそ、その表現形式が、生き残っているのだと思います。

追記:
「メッセージ性のある詩」と、「メッセージとして使われた詩」は、まったく別のものです。
そこの意識の在り方、ということです。だからこそベンジャンミンさんの詩に寄せての文章となっています。
混同すると、この文章の意図はまったく伝わらなくなります。

追記補足:
この点については、本文中に、

「祝婚歌」が現代詩と言われ、「現代詩」の範疇の中で評価される所以は、
この詩がメッセージではない点である。
メッセージという型を選択した自由詩だからである。在り方の問題だ。

と明記されています。



>森川マサハルさん

まー俺は監督ではないので「けしからん」とか「なめとる」とか普段は言いません(笑)。
で、まずご理解願いたいのは、
「メッセージを伝えるために「詩」を使っちゃいけない」と、
他人に向けては一言も言っていない点です。
そんな、他人に何かを強制的に押し付けるようなことをまったく書いていないことは、
よく読んでいただければわかると思いますが、
「自分自身がそう考えている」ということが前提として、この文章はあり、その範疇を越えるものではありません。
(文章だよな。。。こんなの、批評というのもおこがましいし、それこそ批評に対して失礼なので)

こんな文章書いたって、詩をメッセージとして使う人はいるだろうし、
それはそれでかまわないと思っています。
自分がどうこうすることではなく、
その人たち自身の意識の在り方、あるいは詩への接し方の問題なので。

「伝えたいことが「言葉」そのものを超えてしまっているとき、人は「詩」を伝達手段として使うこともあるのではないのかな。」
という意見はそのとおりだと思います。
みさとさんへのメッセージとも重なるのですが、
この文章は、それを踏まえたうえで、ではそのときに、
伝達手段として何故「詩」という形式を選択する(した)のか、
さらに踏み込んで言えば、そのような意識を持っているのか、
そしてその意識の先に「詩」の何が見えるのか、
そういう側面に対する問いだったりします。
なので仮に「そんな意識持つ必要ないじゃん」と思う人がいるとすれば、
その人はこんなの読んでも何の意味もありません。得るものは何もありません。
そのような意識を持った人に向けての文章ではありませんので、
スルーしていただければ幸いです。お目汚しして申し訳ないくらいです。

追記:
たぶん「詩はそんなもんじゃない」ではなく「詩はそれだけではない」と言いたいのです。

訂正履歴:
終わりのほうに一文追加。06-2-23 0:09

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