在り方を成立させる技術について
いとう

ベンジャミンさん
「知らないことを知っている」に寄せて
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=64380


自分の思いを伝えて他人を感動させることが目的なら、
別に詩ではなくてもいいと思っている。
そのために詩を選ぶことは、詩に対して失礼だと思っている。
いや、詩に限らず、すべての芸術に対して。

「自分にとって詩とは何か」「何故詩を書くのか」
そんなことは、個人的にはどうでもいい。
詩を書くことと呼吸することは自分の中では同義だ。
「何故呼吸するのですか」と聞かれているに等しい。答えようがない。
それよりも、
「詩にとって自分とは何か」「自分に詩を書く資格はあるのか」
そちらのほうが、自分にとっては大切な命題だ。



吉野弘という詩人の「祝婚歌」という詩がある。
彼の「I was born」という詩が教科書に載ってるらしいので、
名前を知っている人は多いと思う。
「祝婚歌」は、彼自身が著作権を放棄しているので全文掲載する。



祝婚歌


二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派過ぎないほうがいい
立派過ぎることは
長持ちしないことだと
気づいているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうち どちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気づいているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には色目を使わず
ゆったりゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そしてなぜ 胸が熱くなるのか
黙っていてもふたりには
わかるのであってほしい



「詩とは何か」いや、違う。「詩はどうあるべきか」。
定型を放棄した時点で、そこに答えはない。
(けれでも自由詩というのは型を自由に選べるという意だという論を自分は支持している)
驚いたことに、一部には残念なことに、そして他の一部にはあたりまえのことだが、これも「現代詩」だ。
「現代詩」という概念は、そのように幅広い。


「知らないことを知っている」は、
詩の構造からすれば、とても拙く見える(拙いのではなく、拙く“見える”)。
少なくとも狭義の世界で使われる「現代詩」の構造からは外れる。
けれども、胸を打つものはある。
それはどこにあるのだろうか。


重ねて言う。
私自身は、
自分の思いを伝えて他人を感動させることが目的なら、
別に詩ではなくてもいいと思っている。
そのために詩を選ぶことは、詩に対して失礼だと思っている。
そしてそのような作品はまったく評価しない。
単なるメッセージなら、メッセージとして発信すればいい。
そのために詩を使うなと思っている。
それは構造がどうとかという区分ではなく、
自分の魂をいかに「詩」という表現形式として昇華できているか
そこに尽きる。そこに難易は関係ない。在り方の問題だ。
自分の魂をそのままメッセージとして伝えることは、
それは詩ではないと思っている。

「祝婚歌」が現代詩と言われ、「現代詩」の範疇の中で評価される所以は、
この詩がメッセージではない点である。
メッセージという型を選択した自由詩だからである。在り方の問題だ。
(その在り方を読み取れない人は、両義的に実に多いのだけれど)
そして在り方の問題として、
「知らないことを知っている」は、「現代詩」として存在している。
この詩は、単なるメッセージとしてではなく、きちんと「作品」に昇華されている。
そこには昇華するための技術がきちんと使われてあって、
だからこそ「現代詩」として、いや、「詩」として、成立している。その在り方において。
そこには構造も、熱意も関係がない。


(かなり言葉足らずな論ですが、きちんと説明するには今は時間が足りません。申し訳ない)




散文(批評随筆小説等) 在り方を成立させる技術について Copyright いとう 2006-02-22 23:58:36
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