詩についての雑感②/窪ワタル
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 汰介 
実際にはやっては駄目ですが、
どこかの壁に詩が書いてある、と頭の中で仮定して、
その詩の内容が壁に書いてはいけないのにも関わらず、
一方でその内容が素晴らしすぎて感心してしまう、と言うのが、逆説的に良い詩じゃないかと思います。

- いとう 
- 岡部淳太郎 
- 葉leaf 
個人的な好みをいって恐縮なのですが、たとえば高校の国語の教科書に吉岡実の「僧侶」でも載せれば、もっと詩の良さがわかる人が増えるのではないかと思います。

追記
高校の教科書には確か「檸檬(レモン?)哀歌」が載っていたと記憶しています。もちろんある意味ではすばらしい作品だとは思うのですが、僕はその作品にただの感傷しか見出せず、結局その当時詩が面白いと思うには至りませんでした。教え方を工夫されても、あの詩に「かっこよさ」を見出すことはできなかったのではないかと思います。
ひとつには、教科書に載っているものだけではなく、教師の方でいろんなタイプの詩を提示すれば良いように思います。シュルレアリスム風だったりメタファーを多用したりする難解なものから、ライトヴァースに至るまで、いろんな方向性を持ったものをです。そうすれば、生徒はその中に、ひとつぐらいは「出会いの詩」を見つけることができるのではないでしょうか。今の国語の教科書は、平明な詩に偏っているような気がします。
- あおば 
- PULL. 
- 虹村 凌 
- 石畑由紀子 
- 千波 一也 
プロデュース、して欲しいものですね。
詩に触れたい人はたくさん居ると思うのです。
 
作者より:
広田さん>教科書には、素晴らしい作品が載っていると俺はおもうのです。ただ、その教え方に問題があるとおもいます。

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あえて追記しておきたい
この種の文章は、別に目新しいものではない。反論も、やはり似たようなものになものが出ている。あえて書くまでもないことを、今、わざわざ書いたのは、苛立ちと、自戒の気持からである。反論は結構だが、反論の為の反論には何ら意味がないことを、論者は自覚するべきだ。そういうのを愉快犯という。

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明らかに人を不快にさせる書き方をしておいて、正当な批判だというのは、俺はおかしいとおもう。この文章に対して、異議があるのは分かるのですが、ならば「あなたは詩がどうなればいいとおもっているの?」 とおもう。

俺には、あの反論が「俺の文章を批判すること」を入り口にして、詩や、詩人を小ばかにしているものか、あるいは「詩は求められていない」というための理由付けとして書かれているとしか読めなかった。

そして、それは多分、誤読ではないとおもう。明らかに敵意むき出しな文章だったとおもうからだ。

そういうのを「反論のための反論」というのだ とおもう。
内容がどうかという問題ではなく、そういう手法そのものが「不毛」なのではないかとおもう。もっと云えば、「不毛」であると分かった上で、その「不毛なこと」をやらせるものは「悪意」だとおもう。そういう「悪意」を持って、詩を愛好している人々が集まっている場に来て、詩を語らないで欲しい。

これは批判ではなく、願いです。祈りに近いかも知れない。

ポエムであろうが、現代詩であろうが、自分が詩を読んだり、書いたりすること、その両方若しくは片方が好きなの人なれば、もっと別の書き方をするだろうとおもう。

「俺のおもう詩」が、唯一絶対の詩だとは云わない。そんなことは云えはしない。なぜなら「主観」だからだし、詩を定義するなんて不可能だとおもうからだ。「様々な詩」があっていいとおもっている。ただ「俺のおもう詩」が「売れない」という現状を寂しいとおもっていて、その原因を俺なりに考えて、なるだけ平明に書いたつもりだ。それだけのことだった。思慮が浅いとおもわれるならそれもいいが、俺はあんまし頭が良くないので、反論するにしても穏やかにやってくれないかなー とおもう。

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