以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- - 洗貝新
予告編をチラッと見ただけで興味は薄れた。
当初からミスキャストだろうと思い、他に演出方法はなかったのか、といえば、まあ、脚本の出来栄えだろうね。
小津映画を称賛する監督には日本人に対する思い入れの強さが逆に働いているようにうかがえる。
- - 室町 礼
- 思想的にはともかく、感覚としてはこのベンダース(あっ!
今、ベンダースと打ち込んで「便出す」になった、トイレ
清掃人の映画つくるわけだ笑)映画の本質をよくとらえて
いると思った。思想的にではなく感覚としてだけだが。
投稿者もわかっているようですがもともとこの映画は
安藤忠雄、隈研吾といった世界的建築家が、渋谷区内の17
カ所の公共トイレを「美しく」「ハイテクに」作り直す公共
プロジェクトの宣伝用映画としてつくられたものです。
ヴェンダースに依頼したのはユニクロの柳井康治とかいう
人物です。中国の新疆ウイグル自治区弾圧を隠蔽して新疆
綿で最新ファッションをつくりだすお方です。
わたしはかつて東京をホームレスとしてさまよい、ビルの
トイレ清掃もしたことがあります。その漂白というか放浪
というか根無し草の、不安で孤独な人生の一場面でトイレ掃
除をしていて散々、屈辱を味わいました。そのビルのある
オフィスの男などは、わたしが洗って磨いている小便器の
隣にわざわざ放尿しながら奴隷に命令するかのような口調
で「もっとピカピカに磨き上げるんだぞ」と嘲笑するよう
に偉そうに吐き捨てていきました。生活の不安や屈辱とい
ったものに常にさらされているトイレ清掃人という存在の
生活性というか社会的な底辺層の人間の苦悩というものは、
特権的エリート知識人として生きてきたヴィム・ヴェンダ
ースには意識の外にあり、わたしが映画の予告をみた感想
としては「何かが根本的に違う」というものでした。これ
なら別にトイレ清掃人でなくてもいいのではないかと。し
かしトイレ清掃人という映画主人公の設定は話題性を呼び
ます。主人公がトイレ清掃人でなければならないという思
想的あるいは美学的な根拠がどこにあるのかと思ってこの
映画を観ました。
わたしからみると平山を演じた俳優の笑みは空疎そのもの
でしたね。やはり便所掃除というものはわたし個人からす
るとあまりいいものじゃないです。とはいえ昔と違ってそ
れほど汚いものでもなくなっているのです。いまの都会の
便器は陶器製ですので洗剤を撒いてホースからの水で圧力
をかければある程度の汚れはすぐに流れてゆき、そのあと
ゴム手袋をしてスポンジやタワシでさっとこするだけでピ
カピカになります。そして一度ピカピカにすれば、一週間
ほどしてもそれほど面倒もなく清掃できます。問題は排泄
物をトイレ内に汚していく人間の存在でしょうかね。ある
いはゲロを吐いてゆく人もいるし、便器の排水口をつまら
せる人もいる。そういうことがたまに起きると正直、うん
ざりします。予告にはそういうシーンはなかったのですが、
あの平山というトイレ清掃人はそういうトラブルに巻き込
まれるようなことはなく鼻歌を歌うよに平然とトイレ清掃
をつづけている。そこがどうも、もう少しトイレ清掃のう
んざりする場面のなさに違和感を覚えたのです。つまりト
イレ清掃人というからには、トイレの清掃にまつわる物語
かなと思っていたのですがね。
わたしたちが日々排泄する汚物は必ずだれかがその後始末
をしているのですが、それをする者はつねに賤民的な視点
でみられています。それはトイレ清掃人だけではなく、た
とえば政治家もそうです。わたしたちが嫌う共同体社会に
必ずつきまとう汚れ仕事を代わってやっているのが政治家
ともいえます。だから政治家の手は必ずといってもいいく
らいに汚れているのですが、そういうことを正面からみよ
うとしないで隠蔽するのが世の常というものではないでし
ょうか? ゴミ収集の仕事などもそうでしょう。わたしが
ヴィム・ヴェンダースがトイレ清掃人を主人公にそえると
聴いたとき期待したのはそういう社会の構造、汚物が必ず
排泄されそれを賤民が尻拭いするという必然を白日のもと
にさらすのではないかと期待したのですが、あまりにも観
念的なナニかであるような感じがしたのです。
この映画は一言で言うと「ロボットの便」(それは臭いも
ばい菌もない)あるいはAIの便かな(それは同じく臭いも
何もしない、ただの記号としての便である)ということ
かな。つまりこの映画は特権的知的エリートであるベンダ
ースの臭いもなにもない観念の排泄物ということになる。
小津安二郎ファンのベンダースらしく主人公の名前は
「平山」笑。 『秋刀魚の味』の主人公です。
トイレのリアルな腐臭はどこにもなく、日本的な静謐に
回帰されている。デザインとしての労働、知識人のファ
ンタジーでしかないこの映画、リアルな人間をすべて
捨象して、鼻歌を歌いながらトイレを掃除するのです
平山が。笑
---2026/01/20 04:16追記---
>atsuchan69
>社会的に不可視化されがちな仕事を、ドラマ化せず、
>悲惨化もせず、ただ“あるもの”として画面に定着さ
>せる。その態度こそが、労働を物語の都合に回収しな
>いという点で、きわめてラディカルである。
↑
ただ“あるもの”として画面に定着させているのではな
く、不都合な真実をトリミング(切り捨て)しているだけ
です。もともと知的特権エリートである"便出す"には「ただ
あるもの」すら知らないのだから
トリミングしようもないでしょうけどね。笑
この映画が「場所」を捉え直しているとしても、それはあ
くまで「美しくデザインされた、管理された場所」に限定
されているだけ。汚れ、詰まり、他者の悪意が充満する
「本当の公衆便所」という場所は映画には存在しないで
資本が提供した「綺麗な舞台」の上で、知識人が「人生の
深み」を語ることは、まさに社会の底辺を支える構造を
「美しくパッケージ化して消費している」だけでしょ。
わたしのように一度でもトイレ清掃一年ばかりやってから
いってほしいね。
リアルのなにひとつ知りもしないで、出来合いのクリシェな
ワンパタ言説を貼り付けるのはどうだろうか。詩もそうだが、
自分のことばを持てよ。じぶんの言葉を語れよ。
そもそも、"便出す"はもとからトイレ清掃なんか知らない
しどうでもいいはなしであって、超近代トイレの
宣伝しか考えていないのだよ。小津安二郎風のトイレ映画
つまり僧侶的な静けさのあるトイレの映画しか。
---2026/01/20 10:56追記---
>atsuchan69さん
「極端に限定された感覚世界」ではなく、
極端に限定された観念世界の間違いでは?
そもそも「トイレ清掃人」の世界を知らないのだから
感覚もくそもない。たんなる「観念」です。
狭い狭い、無知で実感のない特権的知的エリートの
妄想世界にすぎません。だれも相手にしない
知的エリート村のオナニーです。笑
- - wc
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- - atsuchan69
- 評者は、同僚の欠員、姪や妹の登場、酒場での人間関係が平山を変えないことを欠点として挙げる。しかし本作の核心は、「人は必ず変わらねばならない」という物語的強迫から距離を取る点にある。平山は変わらないのではない。すでに変化を物語の中心に据えない地点に立っている。その態度は停滞ではなく、近代的成長譚への明確な不参加表明である。
また、小道具の扱いが『パリ、テキサス』ほど物語の根幹に関わっていないという指摘も的外れだ。本作におけるカセット、フィルムカメラ、文庫本は、物語を推進する装置ではなく、時間の密度を調整するための道具である。つまりそれらは意味を運ぶ記号ではなく、生活のリズムそのものとして機能している。浅いのではなく、語らせすぎないのである。
さらに、「実際の清掃労働者が疎外されている」という批判も慎重であるべきだ。本作は公衆便所清掃の現実を社会告発的に描く映画ではない。だからといって、労働を美化し、現実を消去しているわけでもない。むしろ、社会的に不可視化されがちな仕事を、ドラマ化せず、悲惨化もせず、ただ“あるもの”として画面に定着させる。その態度こそが、労働を物語の都合に回収しないという点で、きわめてラディカルである。
日本財団やデザイナーズ便所の無批判な登場についても、それを「居心地の悪さ」と感じる感覚自体は理解できる。しかし、映画がそれらを告発しないことと、肯定していることは同義ではない。ヴェンダースはここで政治的論評を行っていない。行っているのは、制度や資本の背後にある「場所」を、ひとりの人間の反復的な身体行為を通して捉え直す試みである。
ラストの役所広司のクローズアップを「顔芸」と切り捨てるのも早計だ。あの表情は感情の爆発ではなく、言語化されない複数の時間が同時に立ち上がる瞬間であり、観客に解釈を委ねるための余白として置かれている。ここでも映画は、何かを「与える」ことを拒否している。
評者は最後に、かつてのヴェンダース作品にあった「翼」「冒険」「詩」を本作に見出せなかったと述べる。しかし、『パーフェクト・デイズ』にあるのは、翼を失ったあとの歩行であり、冒険を終えたあとの反復であり、詩を叫ばない詩学である。それは確かに地味で、即効性がなく、陰鬱な風のなかで咳き込むような後味を残すだろう。だがそれは「たかが人生以外のなにか」ではない。人生をそのまま引き受けるという、もっとも困難な態度を提示している。
この映画が観客をどのように変えるかは明示されない。だが、変わらなくてもよい、意味づけなくてもよい、冒険しなくても生きられる、という可能性を示すこと自体が、現代においてはすでに一種の冒険であり、静かな詩なのではないだろうか。
---2026/01/20 07:36追記---
重要なのは、映画が「知らないから描かなかった」のか、「描かないことを選んだ」のかという点だ。
『パーフェクト・デイズ』は、汚れや悪意を排除した世界を「現実だ」と主張していない。それらを切り落とした、極端に限定された感覚世界を提示しているだけである。その限定性を、すぐさま無知や欺瞞に結びつけてしまうのは、読みを急ぎすぎている。 笑
---2026/01/20 12:37追記---
象徴的なのが終盤の影踏みの場面。三浦友和が「影って、重ねると濃くなるんですね」と観念的に語った直後、平山は少し間を置いて、実際に影を重ね、濃くなることをやってみせる。そして「なんにも変わらないなんて、そんな馬鹿な話、ないですよ」と否定し、説明も哲学化もせず、そのまま影踏みを始める。ここで示されているのは思想ではなく、身体で確かめる行為である。この映画が限定しているのは感覚ではなく、意味づけや解説の水準でしょう。トイレ清掃の全リアルを描かないことを即「無知」「妄想」と呼ぶのは簡単だが、描かないことと知らないことはまったく別。すべてを語らず、行為と反復に留める態度を「知的エリートのオナニー」と切り捨てるほうが、むしろ観念的ではないのか。
ということで、あとはそれぞれの解釈に委ねます。
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