詩をめぐる診断/菊西 夕座
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- まーつん 
- sonano 
- 洗貝新 

一行ごとに改行された文節。
これが個性もなくまったくぶっきらぼうに語られていくのにはそれなりの理由もあるのでしょうね。
と、医師は感じました。そう、医師である私はいちいち患者のこころの中にまで踏み込みはしません。
患者が痛い苦しいというその発言だけを聞き取り病理学的に診断していくだけです。
私は内科医です。精神疾患性の患者まで面倒見切れません。専門外です。冷たいと言われようとあっかんべぇをされようとかまいません。
患者さんはただのお客様です。
こんなことを言う私の街にもあなたがおっしゃるような廃業した造園業花屋さんの建物があって、ああ放置されたままの植物たちが、生い茂る草花とともに淋しそうに置かれてあるのを目にしますよ。
立ち枯れて萎れて痩せ細るその姿。
お労しや、まるで年老いて塞ぎ込む老詩人の様子ではないかと。
 あ、ちょっと待ってください。
 女房が花を買って戻って来ました。
~薔薇はいいわね。あなたのようにいちいち理屈を付けて解説しなくてもそれだけで美しいから~
女房は不機嫌そうな顔をして後部座席に薔薇の花束をそっと置きました。

わたしは医師ではありません。
ただの植物です。以前あなたの庭を埋め尽くした水仙の種です。
覚えていますよ。あなたはわたしのことを詩に書いてくださった。
もう種も姿も見えませんが、
詩に書いて残してくださった。そのことを。
※  
花に植物たちに送る畏敬の念が込められていて、このようなぶっきらぼうな語り置きになったのでしょう。   敬具

 
作者より:
リつさん、まーつんさん、sonanoさん、洗貝新さん、ありがとうございます。 

洗貝新さまには丁寧な診断までしていただき、たいへん感謝いたします。


「ぶっきらぼう」というのは意識していなかったのですが、余計なアピールは避け、淡々と描写することは心がけまして、それを畏敬の念を込めた「ぶっきらぼう」というふうに解釈していただけたことをうれしく思っております。

というのも「ぶっきらぼう」というのは私にとって一つのあこがれでもあり、表現がそこまで達成できているならば、心がけていた以上によい仕上がりになったと受け止めることができるからであります。

ではなぜ「ぶっきらぼう」が憧れなのかと申せば、やはりそこには洗貝新さまのおっしゃるような「畏敬の念」を込めるにおいて、適度に突き放した距離が必要だからと考えるからであり、まさに「ぶっきらぼう」な態度こそが、そうした距離をとるうえで求められると私も考えるからであります。社会生活を営むうえで人間関係における「ぶっきらぼう」な態度は疎まれるものかと思いますが、花や植物、廃屋といったものに対してまで人間性や社会的価値観を要求しないこと、これこそが畏敬の念をあらわす初歩的態度であり、相手のあるがままを認める一歩引いた姿勢であり、そうならばこそ互いに「ぶっきらぼう」であることも求められると信じるからであります。

「ぶっきらぼう」的態度の意義を深く認識されている洗貝新さまに対し、こんなことをくだくだと説明するのは釈迦に説法的な余計なことでしかありませんが、わたし自身がなぜ「ぶっきらぼう」にあこがれているのかを自ら再認識するうえで、整理する必要があると感じたため、書かせていただきました。

ただ反省点として、今回の「ぶっきらぼう」的表現が、詩的描写としてみたときに面白みに欠け、斬新さもないということにおいては、やはり認めざるをえないと思います。奇抜さを避けつつも、やはり単なる「ぶっきらぼう」ではなく、表現的な面白みも兼ね備えた「ぶっきらぼう」を表出できるよう、精進したいと思います。

重ね重ね、ありがとうございました。



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