プールサイド(2024.11.24)/草野春心
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 朧月夜 
「プールサイド」と題されているのに、「秋 水辺にいるみたいに」としてそれが反故にされているのが釈然としないです。「プールサイド」というのが水の枯れたプールサイドで、「飛沫」というのが「飛沫」と呼ぶしかない、水しぶきではないものと思うとしっくり来るのですが、そうすると「水辺にいるみたいに」という表現が不徹底のように見え……この不徹底さは意図的なものでしょうか。書き終えてから、意図して残した、というのでも良いのですが……とにかく、<水は存在しないのに、存在しないはずの水を浴びている>という事象が、少しく古典的だとは思うのですが、鮮烈に伝わってくるというのはあります。「詩」の言葉として、「水辺にいるみたいに」というのが<これしかない>というものであっても良いとは思うのですが、そうすると、意味のつながりでもない、イメージのつながりでもない、さらに<音韻のつながり>にはとどまらない動機付けが必要になってくるのかな、という感じがします。たしかに美しい詩ですし、「プールサイド」というタイトルも印象的で良いと思うのですが……、ちょっとわたし自身は古い感覚を持っているので、この詩の美しさは不可能図形の美しさのようなものなのかな、といった感じがしてしまいます。

丁寧な返信をありがとうございます。ああ、そういうことかあ、と。わたしは戦後詩などの流れには不案内なものですから、野暮を承知でお答えいただき、逆に申し訳ないです。マグリットの絵のタイトルが「これはパイプではない」的な……ふむん、まだやはり的を射ていないですね。「意図した不徹底です」と言っていただけますと、わたしとしてはほっとする部分があります。重ねてありがとうございます。
---2024/11/28 21:14追記---
- atsuchan69 
- ryinx 
- 室町 礼 
 
作者より:
朧月夜さん

丁寧なコメントありがとうございます。

せっかくそこまで書いていただいているので、私も野暮を承知で書きます。まずこの詩では光を水〜プールに見立てています(そりゃそうだ)。そのうえで、そういう「見立て」を全面的に展開するのは私の好みではない。だから程々にしておいて、まったく別に、デッサン的に枝と葉のくだりを頭に置く……という感じで書いています。


アレゴリー的なもの、メタファー的なものを全面展開しない。あくまでそれは部品だけ、雰囲気だけ残すみたいにして書いて、他方でまったく違う方向から即物的な文章をちょっちょっと書き足す。そういうバランスです。

なので、「不徹底」と仰るのはそのとおりです。そしてそれは意図した不徹底です、というのが回答になるでしょうかね。

コメントありがとうございました。

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