雨降る街の子のうた/ひだかたけし
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 朧月夜 
中原中也の「六月の雨」を少し連想します。「六月の雨」はよく知られた詩ですし、人生の根幹を表現している詩である以上、どんな詩にも共通点は認められるものなのでしょうけれど……わたしがことさらにそのことを意識したのは、なぜかな?……ひだかさんの私生活について、わたしは十分に知っているというわけではありませんが、中也の人生に対する生な悲しみと同等なものが、この詩にも表れているような気がします、ひだかさんなりの抒情で。ただ、そこが少し不満でもあり、これは望まれて書いている批評ではありませんから、作者に忖度するということもありませんし、それゆえに作者にとっては不満や反発を感じるものでもあるとは思うのですが、現代詩の作者として、この詩はしっかりと現代風の味を醸成しつつ、古典の風合いも宿していると思います。語彙的には少しも現代的ではありません。ですが、それが現代的に見えるのはなぜでしょうか? わたしはその答えをしかと掴んでいるわけではありませんが、あるいは中也の詩のような古典の伝統を踏まえたうえで、しっかりと模倣ではない詩作品として完成されている、その独立性によって(過去の詩作者に忖度はしないというその態度、果敢さによって)現代詩足り得ているのではないか……と。(時代は、世相は繰り返しますし、詩想というものも繰り返すものです。現代詩が平安時代や室町時代の歌を繰り返している、ということがあまり意識されないのは、それがはるかな過去であるからに過ぎません)これから50年後の読者であれば、やはり「六月の雨」とも類似性を感じるのではないかと……ですが、わたし自身はひだかさんの中也に対する共感と反発についてもわずかに知っていますし、これらの二つの詩はやはり別々に解釈すべきではないのかと、つまり、影響を受けたのか? ですとか、影響は受けていないのか? ですとか、そういった思い込みなしに感受することが必要である、と。ただ、このような古典的な詩の完成は現代では避けられていることでもあり、むしろ珍しいものでもあり、そこにひだかたけしという詩人の原点に立ち返った詩の姿勢というものもあるような気がしています。上手いなあ、とは思いつつ、いやリラックスして書いているのかな、とも思いつつ、現代詩人がこのような古典の風合いに立ち返ることも、良しとしましょう。ただ、わたしは、この古典的な詩のなかに、中也の時代との100年の懸隔を思うのです。この詩にはコンクリートの匂いがする、と。
- 田中宏輔 
- ヒロセマコト 
- atsuchan69 
- Giovanni 
 
作者より:
おぼろんさん、

この詩、今日早朝に雨降り部屋から観ててふと取り憑かれた気分感情から始まったんですよね、
あ これは書かなきゃ刻み打たなきゃ って感じで、

で、その瞬間に中也の作品に在ったなこんなの…ってうっすら意識して

そこでずっと今日一日詩想して最終的にこの作品に生ってる みたいな。

確かに『六月の雨』に共通する普遍的な哀しみ(悲しみ ではなく)在ります、
ただ俺自身表したいこの気持ち気分なんだろな?と自問直観的思考思惟にパッと浮かんだのが最終連です。  

この世界から何か神性を受け取りつつ人は何かを歓び魂をこの世界に流し出し投げ返して居る 
その実感ですね、

哀しみの底に透徹と横たわり在るヨロコビ というか…
歓びの底に透徹と横たわり在るカナシミ というか…

まあ、そんな感じで纏め括ります。笑。√

真摯なご批評、久しぶりに味わわせて頂きました。

ありがとうございます♪


---2024/05/28 19:41追記---

---2024/05/28 20:38追記---

追記

〉この詩にはコンクリートの匂いがする、と。

鋭い指摘です。

視点視座があっちの次元からこっちの次元へ戻り
こっちの次元、鉱物コンクリートで出来てますからね、基本圧倒的に

僕が今住んでる街は緑豊かな所ではあるのですが、水道道路という幹線一本 アパート部屋の真下真正面貫き走ってますから。ゝ
 


---2024/05/28 21:52追記---

---2024/05/28 21:56追記---



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