恋愛詩の在り方/葉leaf
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- るるりら 
- アラガイs 

恋をする人は誰でも詩人である。また恋は盲目だとも喩えられる。では言葉に恋をした詩人は果たして盲目なのであろうか。これは違う。言葉には尽きることのない始まりもなければ終わりもない。


- 深水遊脚 
前提を疑わずに読むこともできます。裂け目を多く持つならその言葉が共有される範囲も広がるでしょう。

恋心や好意を含むなんらかの言葉が、そう簡単に誰かに向けたものとわかってしまうとしたら、恋愛が成立しません。オーディエンスを拒絶するやり取りである恋愛を語る言葉は、赤の他人の読者に恋愛詩だとわかるものではないのだと思います。現代詩の技術的な洗練とは別の側面もあるのだと思います。秘密の共有を拒むあり方。
- たけしいたけ 
とても勉強不足で意見などとおこがましいのですが、
こう深く掘り下げることは好きなので、共感がてらにコメントしますね。

これは詩全体に対する投げかけになると思います。
他者を巻き込みながらも欲望を表現するのは、
言葉という範囲からはなかなか骨が折れることですよね。
小説、映画の方がずっとすっきりと表現されるのかもしれない。
(言った先から、それも簡単じゃないのだと考えさせられますが)

恋愛だけじゃないと思うんですね。
この様なシガラミをどの様に抜け出るのかは僕らの課題なんだと思います。

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