どうしても、ぼくには分からない/HAL
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 吉岡ペペロ 
- 多紀 
- 石田とわ 
こんばんは。
戦場で傷ついた兵士をそのままにして、兵士がいなくなったら
戦争がはやく終わるだろうかと考えました。
きっと終わらない。
また民間人からあらたな兵士がでてくるだけの話しではないでしょうか?
そう考えると人間がいるから戦争が起きるんだなとあらためて
考えさせられました。
ふだんこうしたことを考えないでいたのでよい機会をくださり
ありがとうございます。
---2013/02/17 21:56追記---
- 夏美かをる 
ううむ…そこまで考えたことはありませんでした。
- そらの珊瑚 
赤十字への寄付
私もしたことはありません。
こんな風に多角的にこの問題を考えたことも
ありませんでした。
---2013/02/18 18:03追記---
すみません。訂正です。赤い羽根募金は毎年してました。
赤十字への寄付だということさえ意識してなくて。

- 梅昆布茶 
その矛盾を考え始めると夜も眠れなくなります。

というのは嘘ですが。

でも結局理念を少しずつ修正してゆくしかないと思っています。

時間はかかりますがある意味それが文学とかのひとつの役割かとも思っています。



- まーつん 
戦争における利害とはなんでしょうか。
民族問題や領土問題に端を発した中堅、小国同士の戦争に大国が介入するとき、そこには経済的思惑が絡んでいることがよくあるそうですね。
その国の未開拓な市場を自国の企業に独占させよう、とか、貴重な埋蔵資源を自国に有利な条件で取引しよう、とか。
こうした大国の姿勢は、過去に幾つかの武力紛争を助長してきたようです。

また、軍需産業に力を入れている国々も、様々な武器を売りさばいているという意味で、戦争を直接的に助長しています。
アメリカもそうですし、中国、ロシアなど大国のほとんどがそうでしょう。

もし人間を、戦争における兵器の1つだと見なすとするなら、
壊れた兵器を直して戦地に送り込むのは、火に油を注ぐ結果にしかならないのではないかという危惧は、もっともだと思います。

ただ問題は、人間は兵器ではないということです。何かを破壊するためだけに生まれてきたわけではないのに、
そう命じて戦地へ送り込むこと自体どこか無理があります。そして、医者の性(サガ)というものがあると思います。
自分たちが下した医療行為が、大局的に見て戦争全体の死傷者の数を増やすことにしかならないかもと頭では分かっていても、
目の前で血に染まりうめき声を上げる兵士たちの訴えを、黙殺できるものでしょうか。
そういう時、人は本能的に救いの手を差し伸べようとするものです。医師であればなおさら。

この理性と感情のジレンマは、現場にいる当事者たちが一番身に染みてわかっているのかもしれません。
全ての赤十字のスタッフがそう感じているかと言えば疑わしいですが、自分たちがしていることは本当に正しいのか、
日々気持ちを引き裂かれるような思いでメスを握る医師や、包帯を巻く看護婦もいるのではないかと思います。

兵士たちの全てが戦争の意義や目的を理解しているのか、と言えば、恐らくそうでもないでしょう。
例えばアメリカの陸軍は、貧しい生活から抜け出るために軍隊にやってきた若者も多いと思います。
一方で子供のころに貧しい村から連れ去られて、軍事キャンプのようなところで訓練され、
戦闘技術や敵対思想を叩き込まれた紛争地域の若者たちもいます。
そんな彼等が負傷して運ばれてきたとき、見殺しにはできないというのが医師たちの本音なんじゃないかと思います。
兵士たちを救うべきか? 彼らが誰かを殺しに行くとわかっていても? あるいは見殺しにすべきか? 彼らが目の前で死んでいくとしても?
多分、どちらが正しい、ということはないのだと思います。どちらも正しく、どちらも間違っているのです。

ただ、この詩を読んだ時、HALさんの視点は、非常に貴重なものだと思いました。
戦争が嫌だと口で言うのはたやすいですが、現実的なレベルにまで踏み込んで戦争における個々の組織の在り方を問いかける詩人は、非常に稀な存在だと思います。
事実僕も、感情論で書いた反戦の詩を投稿しましたが、赤十字の兵士に対する医療行為の妥当性についてなど、ちらりとも頭を掠めたことはありません。
恥ずかしながら、ただ嫌なものを嫌だと言っているに過ぎないのです。その意味で、とても学ぶことの多い作品で、敬服しました。
はた迷惑なぐらいに長くなってしまいましたが、書いていて、とても充実した気持ちを味わえました。こうした問題を考えるきっかけを頂き、感謝します。皮肉ではなく。
人の作品の尻馬に乗った形で、恐縮ですが…
- るるりら 
もし私が 人を殺すことが あたりまえの育ち方をしていたら
わたしは人を殺すと思います。
そして、そうでない生き方の人にであったとする。
人殺しどころか わたしの命を守るために 尽力しておられる方
にであったとする。それは、どんなに魂が救われるだろうかと
思います。

そんな出会いに恵まれても 私はやはり殺人をするしかない境遇
だとする。それでも、殺人ではない生き方をしておられる方の
出会いがあるとないとでは 私の人生の彩りは とても違うの
ではないでしょうか?

どんな状況であれ わたしが悪人であれ たすけようとする人に
出会うか出会わないかでは 私の人生の彩は とても違うはず。 わたしの場合は そのように思いました。

- 松岡真弓さんも いっておられますが、ここの役割は 
戦争紛争被害者への援助だけではなく 災害義捐金のとりまとめ
も行っています。ここ以外のところからの送金は、
税金の控除などがありません。
扶助控除とはなにかを 考えるなら この組織のことを 
考える必然があるとも 思いました。

---2013/02/19 08:07追記---
公開処刑をご覧になったことがあるのですね。それは 
いかばかりのショックだろうかと 推察させていただいている
ところです。
アウシュビッツにも行きたくないというお気持ちは、
解るような気がいたします。なぜなら 私は 広島で育ち
子供の頃に 遠足や学校 そして実体験をお持ちのお話を聞きながら育ちました。
そのたびに おっしゃるような反応になったことがあるし 
わたしの友達が吐いている姿も見てきました。
 わたしが先に書いたコメントのような気持ちになったのには
わたしの育ち以外にも理由があります。
今回のこの詩を受けて、戦中に 日本の赤十字ではたらいておられた方のコメントを視聴したからです。日本の当時の赤十字ですから 自国の負傷者の看護です。そういう意味で この詩とは違います。しかし、わたしは コメントに残したような感想を持ったのです。

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100116_00000

アウシュビッツには行きたくないというお気持ちは、
よくわかります。しかし、アウシュビッツの近くに住んでおられる方々は
どんなに嫌悪感をもっていても アウシュビッツの近くに住んでいらっしゃるのだと 思います。そして 広島では 人が殺される話を仮想ではなく親族の話として聴くだけの土壌があります。

ヒロシマの場合は 情報がアメリカによって制限を受けていましたので 原爆投下直後は ろくな医療もほどこされませんでした。
それでも、ヒロシマをおそれず尽力するために こられた方であるジュノー医師などは もはや伝説です。赤十字も彼を広告塔にしています。人を殺すことが あたりまえの育ち方をしていた敵国の日本人が深手を負ったことを知り 尽力をされました。ジュノー医師もこの詩とは ちがい 日本が敗戦後の話ではあります。しかし損得をかんがえずに行動する方が ひとりでもいらっしゃると 多くの人の心が浄化されるという実例の ひとつです。

貴重な思考の時間をいただき 感謝しています。さまざまな方が熱く語っておられるし、素晴らしい 問題定義をありがとうございました。私信にしなくて すみません。私信という形は わたしには 辛かったので こちらに追記しましたが、議論のつもりで書いていないことに免じて 許してやってくださいませ

---2013/02/19 10:56追記---
- 泡沫恋歌 
みんな白熱してて・・・
コメント入れ難いけど、アグネス・チャンがやってる
日本赤十字は詐欺だと聴いたことがある。
それで私腹を肥やしているらしい。

- 北大路京介 
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- Lucy
昔、アパートの火事で焼け出された時、赤十字からいち早く毛布とか、軍手とか、歯磨きとか、なんか生活必需品セットのようなものを支給され、恩義に感じた記憶があり、毎年寄付を続けています。(てゆうか、うちの町では町内会を通じて半強制的に集めているので、そのことには疑問を抱いてはいます。)東日本大震災の義捐金がすべて赤十字にまず集約されていることも疑問視しています。しかし、ご指摘の問題について深く考えたことはなく、そのきっかけをいただいたことに、深く感謝いたします。本当に考え込んでしまいました。
でもこの作品は、詩ではなく散文ではないかと思います。
 
作者より:
これは、高校生頃から疑問に想っていたことを、詩にして約1年投稿せずにいたものです。軽く詠んだ訳ではないのですが、ぼくの想像を越えてエラい騒ぎになってしまって、詠んだ本人が驚いています。どの方のコメントにも一理はあるし、賛成できる箇所も異議を唱えたくなる箇所もおひとりのコメントに同居してますので、順に感じたことを述べさせて頂きたいと想います。

>伊藤鷹彦さんはコメントがありませんでしたが、評価は頂いたと想っています。何処がとの質問はご勘弁下さい。
>れたすたれすさんの意見には、然りと想っています。ただ、赤十字を含めて好いかどうかは明確にいまはお答えできません。
>多紀さんもコメントがなかったので、間違っていたら申し訳ないのですが伊藤鷹彦さんと同じ返礼にさせて頂きます。
>十六夜KOKOさんの仰っていることを、ぼくは否定できません。逆に、その指摘にぼくが想いを馳せなかったことを自戒していま 

   す。いつか思慮を重ね一編の詩にしたいことをこころに刻みました。
>夏美かをるさんには、是非、一度お考え頂き、夏美さんならでは考えをお訊きしたいと想います。それが遥か遠い日になっても。
>そらの珊瑚さんのコメントは、一般の方々の想いにいちばん近いような気がすることと、政治家の背広に季節が来ると必ず見える

  ことを想い出しました。
>梅昆布茶さんのコメントは、とても佳い意味で理性的な考え方だと、ぼくには感じられました。
>まーつんさんは、戦争というものに対してすべてとは言いませんが、ぼくの考え方にもっとも近い思考を持っておられると、これま  

   での作品から感じていましたので、より深く詳細な考え方を知ることができたと想っています。決して尻馬に乗られたとは想って
   いません。ぼくは、いつかロボットが人間に代わり兵士になるという考え方が甘い思考だと気づかせて頂きました。ロボットででき
   るなら、その国の首相や大統領が1回限りのじゃんけんで決めることができますもんね。どちらも正しく、どちらも間違っていると
   の指摘には反論する言葉をいまのぼくは持ち得ていません。そういう意味で眼を醒させて頂いたコメントだと想っています。
>るるりらさんの意見は、ある仮定を前提のコメントですので、申し上げようがないのです。ただ、眼の前でひとがひとを殺すのを

   見てもその仮定を現実として受け止められることができるでしょうか、との疑問を抱きました。ぼくはベトナム戦争中のベトナム
   のサイゴ ンに某通信社からプレス・パスを貰い密入国で入国し、サイゴンの中央広場で20歳過ぎの女性が北のスパイとして
   捕まり、亜熱帯地方の美しい朝焼けのなかで公開処刑されるのを見ました。その後は、ぼくは翌朝まで便器に捕まって吐きつづ
   けていました。もう一度、見てみるかと問われれば絶対にご免です。同じ理由でアウシュビッツにも再度、訪れたくはない
   のです。どう罵倒されても、ぼくは柔であるかを見つける言葉がないほど想い知らされました。いまもこうして書いていると嘔吐
   感を憶えます。
>るるりらさんへの追記として。

とても重く厳しく鋭利なコメントでした。ぼくは、国内ではヒロシマもナガサキも知覧特攻隊飛行場も訪れていますが、すでに吐露しましたアウシュビッツ、そしてサイゴンの中央広場で見たものは、いったいぼくにとってなんであったのかの総括が、サイゴンから40年近くも経つのに、未だできていません。だれかに『それは単なる野次馬根性ではなかったのか!』と叱責されれば、いまのぼくに返す言葉は持ち得ていません。一日一日を送りながら、汚れた澱がこころのなかに堆積していくことを、見て見ぬ振りをしている自分は、ただ見るものに過ぎなかったのではないかとのも分かっているのにです。この追記に返礼を記すことは、偽善になります。今回だけは、るるりらさんに対してだけですが、返礼の言葉は書きませんし、書けません。どうか、その非礼を許して頂こうとも想ってはいませんが、微々たる寛容で結構ですので厚かましい希望ですが、ご理解頂けないかと想っています。申し訳ないことは、重々に承知の上で。責任逃れも強く分かった上でのお願いです。本当に申し訳なく想っています。
>泡沫恋歌さんのコメントを入れ難いお気持ちは充分に理解できます。ただ、アグネス・チャンの件は確たる証拠がないので、ぼく

   はコメントできません。
>松岡真弓さんのご意見ですが、火事の際の赤十字にはなんの疑念も抱きません。東日本大震災の義捐金がすべて赤十字にま

   ず集約されていることも疑問視していることのコメントには、ぼくは同じ気持ちを抱いています。散文ではないかとご指摘にも否
   定できません。ただ、是非、お考え頂きたいと強く願っています。

以上が非常にぼくとしては、簡潔に返礼としてお答えしたつもりですが、簡潔過ぎてそれぞれの方の言いたかったことがないとも感じられる場合もあるかもしれません。今回の問題については、プロフィールに書いたことを破り、私信として頂ければ、議論に応じるつもりでいます。丁度、20時にコメントを熟読させて頂き、現在は22時42分をMacの横においたディジタル置き時計は指しています。今回は、投稿もすることも兼ねてログインしましたが、それを投稿するのが憚られるますので、日を改めて投稿させて頂きます。また、同時にそれぞれの方の作品を拝読し、感想を残したいと考えていましたが、もう気力が尽きてしまいましたので、そのことも日を改めてさせて頂きます。この詩とも確かに散文とも呼ばれても仕方がないものに読んで下さり、沈黙も選んだ方もそれはそれでひとつのコメントだとぼくは想っています。返礼に時間を要したことは、読んで下さった方すべてになんの責も非もないと考えております。すべて、自分が提示したものだけに責も非もぼくにあります。本当にお世辞も社交辞令は、これまでも機会がある度に書いてきましたが、ぼくはお世辞も社交辞令は嫌いですので、言葉通りに受け止めて頂きますようお願いいたします。皆様、本当にありがとうございました。とても自省・自戒・更なる思慮を掘り下げていこうと考えております。以上が、これまでの返礼とは異なりますが、お伝えしたい気持ちはいつもと同じものです。繰り返しになりますが、本当にありがとうございました。感謝しております。

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