書店に詩を/深水遊脚
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- あおば 
- アラガイs 
詩集は宝物足り得るのか。装丁や挿絵にも工夫が在れば美しく楽しいですよね。好きな詩集は宝物ですよ。

- 阿ト理恵 
わたしも、ぽえむぱろうる時代なので。

大手の本屋より、雑貨屋や古着屋、昭和の臭いする喫茶店の片隅になんとなく置かれて、なにげに売ってる詩集やら手作り絵本が今でも好きで。

マニアックな本屋には必ず、詩集は今でも置かれているから、まだ大丈夫。

吉祥寺には、まだ、そんな店が多くて。

トムズボックスっていう、絵本を主に置いてる本屋には、詩画集あります!

画廊とか美術館の片隅に売ってたりしたら いいなあって思います

そういうところへ行く人に買われていくものなんじゃないかなあ詩集って

個人的意見です(^^ゞ

- ゴースト(無月野青馬) 
- 雅 羊々 
教科書の問題は捨て置けないと思います。
教科書に載っている現代詩のつまらなさと言ったらない。
一時期塾講師として小中学生に勉強を教えていたことがありますが
一様に「詩は詰まらん」といいます。「分からない」と言います。

私も教えていてあまりに詰まらんので適当に説明して「こんなん分からんでいい」で終わりです。
そして多分彼らの人生の詩経験のほとんどがこれで終わるのです。

俳句・短歌も芭蕉などは分かるでしょうが昭和になると分からんものになっています。
なのでやっぱりこれもあとに続かない(老人の文化センターの趣味として生きのこる道はあります)

「詰まらない」という先入観を壊すのは容易ではない。
消費者としては書店に入ったときに結論がもうついているのです。
いっそのこと教科書から詩を全部削除してくれないかな。

---2013/09/28 02:53追記---
私は今34歳ですが教科書で見たのは谷川俊太郎、草野心平、宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』とか。
要は説教(として教えるもの)とサヨク思想全開です。
子供はそういうものを敏感に感じ取ります。
半端な思想は「学校的なもの」、つまり偽物と理解します。
『一つのメルヘン』が載っていたとすればそれはいい時代だと思います。

あと当然「問題」にすると恐ろしく嫌がります。
これは高校生の小説読解まで含めて国語教育全般が文学に罠を張っているのかと思うレベルです。
詩読解・小説読解なんて詩や小説を好む行為となんにも関係がない。

こういう教育方針を見ればこれが十分読者を跳ね返しているのが分かると思います。
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~kokugo/nonami/2002zemihp/2002zemi.html
 
作者より:
好きなものをちゃんと好きと伝える
ほかのものを引き合いに出さずに

新貝 常 さま
 ポイント、コメントありがとうございます。
 まさにそうですね。井坂洋子さんの『箱入豹』は表紙の森山大道さんによる写真が凄くて、私にとって宝物です。ほかにも豹柄だったり、紅葉がデザインされていたり。そうしたものと詩のテクストから来るものが重なって得るものは格別です。

阿ト理恵 さま
 ポイント、コメントありがとうございます。
 吉祥寺は面白そうな街ですね。千葉に住んでいたときもっと行っておけばよかったなあ。たしかに、そこにおかれた詩集が生き生きとしているような書店だったり、あるいはそれを包む街全体であったり、場の引力が作用するところは楽しいし居心地よいですよね。そこに出かけるのもひとつです。行きたい人が行かなくなったら場も活性化しないので行くことは大事です。
 でもまあ、詩への欲求なんてまるで存在しないかのように振舞っている人たちに、読みたい詩があるんだけどおまえの本屋にないんじゃ!ということをちゃんと伝えるのも必要かな、と思い始めていて、もう1ヶ月に1回買うことも決めていて、次に買うのはアレにしよう、ということも決めていたりします。どれだけ実効性があるか分かりませんが、しばらく続けてみます。

ほかけ さま
 ポイント、コメントありがとうございます。
 今回私は、読む側の発信をもっと積極的にしよう、という主張をしてみました。発信の内容も具体的に、書店での注文としました。「何が欲しいか」ということを人に見える形で示さなければ、いつまでも詩は読まれないままだし、市場経済に乗っかってきません。読みたい欲求が存在するものが市場経済に乗っかってこないのは不自然です。読みたい欲求をもっと発信すべきです。
 ほかけさんが書かれたのは、書き手の事情、それも、雛形に頼らない、言葉を生み出すのに時間がかかる、ある特殊な書き手を想定したものであるように思います。もちろん、そういう書き手と大手出版社の担当編集者との相性の悪さは容易に想像できますが、その大手出版社が持つノウハウも、詩が好きな読者の欲求を汲んだものではありません。詩が好きな読者の欲求が彼らに見えないのをいいことに、ないかのように振る舞うのを、詩が好きな読者は黙ってみていて良いのか。自分が好きなものを人に見える形で発信しましょう。行動しましょう。それが私のいいたかったことです。
 ちなみに雛形もとい文体またはスタイルのようなものは無意識に誰もが身につけるものと思いますし、言葉を生み出すのに時間がかかるという点は、それでも多くの作品を生み出しなおかつ質も確保する詩人がいればその人を素直に応援しようと私は考えます。そんな詩人にちゃんとお金が入るようなかたちで支援し、読むことで自分も成長できる。これで作者も読者もハッピーになれます。批評は大事ですが、批評とは別にこういう詩への貢献の仕方もあるのではないか。私はそう思います。

雅 羊々 さま
ポイント、コメントありがとうございます。

作者コメントを書こうとして教科書、詩で検索をかけたところ、こんなウェブページにたどり着きました。

「資料 高校教科書に掲載された詩人たち」
http://www.geocities.jp/iyo59/cas2.html

伊藤芳博さんによる、もう20年近く前の資料です。私が教科書に載っている詩としてイメージするものと、大体重なります。いまはどうなっているか、ちゃんと調べる必要もありそうです。私が教科書で出会ったなかでは、中原中也の「ひとつのメルヘン」、茨木のり子の「汲む」、新川和江の「私を束ねないで」あたりが詩への興味を繋ぎ止めた作品たちでした。面白いかつまらないかでいえば、つまらないものに分類されてしまいそうですね。

 思春期の子たちの関心事と、一応はリンクするけれど毒気の少ないものが慎重に選ばれている。このラインナップをみると、そう思います。しかもあちこちで教えられているものだから、大人が子供に教えるスタンスでの解説がまとわりついて離れない。そうした妙な解説が詩をつまらなくしているもののひとつかもしれません。

 素読が一番いいのかもしれません。たいていの解説は無粋ですし、感じ取り方まで誰かに決めてほしくはないです。四書の『大学』を素読したことがあります。最初は意味が全く分からないのですが、段々と通じてきます。内容は下手なビジネス書よりも生き方、決断の仕方について簡潔に、しかも深く書かれていて好きです。原文に直接親しむことで、自らの思考と原文とが不可分になった状態。本の種類を問わず、読んでいてこれほど楽しい瞬間もないでしょう。

 詩については、解説を無視せよ。原文に直接あたれ。そう言って放置したほうが、あとで子供たちが詩を好きになる確率がわずかに高まるかもしれません。私のときの現代国語の教師は、「ひとつのメルヘン」を題材に生徒に絵を描かせていました。これもよかったかもしれません。子供からの働きかけが大事ですね。

 教科書だから限界があるのかもしれませんが、エロいのやグロいのを適当に混入させるとよいのにな、と思います。


あおば さま
無月野 青馬 さま
 ポイントありがとうございます。
---2013/02/18 18:06追記---

---2013/02/18 22:32追記---

---2013/09/27 23:30追記---

---2013/09/27 23:34追記---

訂正履歴:
雛鳥かおまえは!直前の表現を変えました。13-2-16 12:42

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