作者より:
坂道の上で車輪を遊ぶのは、坂道の下で遊ぶのと比べて容易いだろうか
僕は同じ事だと思う
他人に生きている理由を見出してもらって生きるのと、あるいは死ぬのとどっちが容易いだろうか
他人に死ぬ理由を見出してもらって生きるのと、あるいは死ぬのとどっちが容易いだろうか
どっちが意義深い生だろうか
どっちが価値ある死だろうか
どっちが価値ある生だろうか
どっちが意義深い死だろうか
誰に何を求めて生きたり死んだりするか、その正解は普遍的な答えがあるとは僕は思えません
生きるべきか死ぬべきか、は今の問題、式の途中。そして主人公は生きる意味を探します。
彼は君の幸せを探します。生きた時間と死んだ時までの意味をです。
しかしやがて来る死は何を起こすのか不安で、わからなくて、彼は(僕は)死を恐れます。
だから無理にわかろうとして生きていく。
自然にそれ(死の向こうの未来)をわかるには死ぬしか無いから。
だから転がり始めたらもう自分でもどうしようもなくなるだろう坂道の上で車輪を転がすんです。
遊ぶようにふざけて、なんの価値のない車輪だと割りきって。
この詩でも僕はたくさんのことを書かなかったけど、ちょっと気が向いたので書いてみました。
こういうのは逆に書かないほうが受ける気がしています。
なぜなら詩を必要としている人は、絵を書きたいのに少ししか絵の具を持っていない人だと思うからです。
だから、そういう人に写真を渡したり完成された美術を渡すのは、不親切だしバカにしてるとすら感じます。(詩っぽい短編小説を読みたい人は沢山いるとは思います。それこそが真の文芸なのかも知れません)
もっとも自己主張だけで書いた詩もいっぱいあるのであんまり偉そなことは言えないのでとっても小さな小声で言いたいところですが、これは文字なので小声も大声も無いですね。