作者より:
新貝 常さん
コメントありがとうございます。
そうですね、ボルカさんのあの散文、詩のことばとしてなら
わたしにはあまり言うことはない。
そこんところはたしかに不思議だった。
あれは、いつものボルカ大先生なら詩に書くところだ。
いつもの伝で、幼い息子を登場させて
プア、じゃなかった、ピュアなことを言わせる。
そして父親のボルカ大先生がそっと
もうひとつ奥向こうのなにかを指し示して教える
そういう微笑ましい、尻のあながむずがゆくなるような
対話形式の詩にするところです。
ところが今回は息子が登場しない。
そして散文形式だった。
こりゃあ、なにかあったなと思いました。
(べつにナニがあろうと関係ないですがね)
ただ、念力でわかれよ、気合でおれのいうことわかるよな
みたいなこと散文で書くより
それこそ、
息子との諍いの後、おやじがひとりでぼそっと
「気合だ、気合だ]」
とこぶしを握り締める、、そんな詩を書いても
おもしろかったんじゃないかなと。
おもっております。
わが親愛なるボルカ大先生
あと、付け加えておくと、この問題は
ボルカさんは人間の限界を超えたところに
キリスト教のような人格的な神の存在を認める立場なんです。
わたしは、そうではなく
人格的な神を否定する立場てことです。
そういう概念は人間がつくったものであるという立場ですね。
人格神に対するお互いの対立する考え方が出てますね。