以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- - 光井 新 
- - たりぽん(大理 奔) 
- 心の難解さへと真剣に向かっていく試みは、詩の書き手がつづけていく方向の一つではある。「べき」かどうかは?だけど。
- -  さくら 
- - 北村 守通 
- - 大村 浩一 
- - K.SATO 
- すごい
- - つばくらめ 
- 岡部さんの「心」を感じました。
- - 銀猫 
- - 長谷川智子 
- 投石の労と論旨の一貫性に一票。
 濫作でひとの心に訴えかける作品は生まれない。詩にかぎらず。
- - norif 
- - 木葉 揺 
- - ブライアン 
- 僕は1980年に生まれました。
 僕らの世代はまさにスタイルの時代と称していいのではないか、と
 僕は思っています。
 その象徴的な文化が、インターネットではないか、と。
 インターフェイスにのみ、僕らは気にかけて生きています。
 インターフェイスのその奥に在る物を知ろうとしていたはずの感覚もまた、
 インターフェイスをより知るために発達して行ったように。
 僕らの世代に似合っているリズムは、大地のリズムではなく、HIPHOPのリズムであり、
 僕らに似合っている感情もまた、与えられた感情であるように。
 
 さあ、ここから僕らはどうその容器たちと片をつけるのだろう。
 僕らは僕らの上の世代から受け継がれたその容器を、どうやって処理するのだろう。
 
 
- - 《81》柴田望 
- - 飯沼ふるい 
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- - 深水遊脚
- 心が複雑であるとする点、心の複雑さに向き合う態度が内実を伴う詩に致る一つの道筋であるとする点は、その通りでしょう。しかし極論になりますが、心の複雑さを観察するには頭のよさが必要であり、結局のところ詩作は知性のゲームであるという結論を導きかねないところもあり、あまり賛同できません。そして、内実の有無を人は果たして見極めることができるのかについて疑問だと感じている私は、ポエム作者の内省の浅さも、現代詩作者の空虚な技術披露も、本当にそうなのかと考えてしまいます。
- - 1486 106
- 結局のところ問題は読み手にあるのでは?
 内実を理解するだけの読解力がないから
 「わかりやすいポエム」に共感を得たり、
 反対に「難解に見える現代詩」に魅力を感じたり…
 それこそが真理なのではないでしょうか?
 作者がどのような内実を作り上げたとしても
 読者が分からなければ無いのと同じわけですし、
 その反対でもあると思います。
- - 佐々宝砂
- 心なんかはなからどうでもいい、内実などない、
 と思う、私のような書き手を全否定された気分です。
- - れつら
- 二項対立から何かを解決したように見えますが、実は何も解決されていませんね。「内実」へ突っ込む態度という別の項を立てただけなのだと思います。
 
 でも、それでいいと思います。
 みんながひとつの方向に突っ走る必要はない。
 行った先で出会うことがあるならば、それを喜べばいいだけ。
 
 何を皆さんがカリカリしているのか、よくわからん。
- - るるりら
- わたし自身の心自体は、すこしも難解なんかではなく、いたって単純なものしか核にないと感じています。人様の詩を読ませていただいても、その詩の核に そこぬけの青空のようなものが 描かれているとき 私はその詩を美しいと感じます。そんな詩に触れたとき読者の私は 心が はばたくのも感じます。そんな詩は自立して美しく、読み手を救ってくれるのです。それはあたかも鳥の羽の内実は空洞なのと似ています。内実が からっぽで がらんどうなのです。
 
 詩作することによて 救われたがっている詩は多くあるし、書き手がすくわれたがっているのだから 救われるといいなと 読ませていただいていつも思います。けれど、本人は心の難解さに立ち向かっているつもりで、よりよく生きる希望に向かっているベクトルと逆のベクトルに進むことがあると私は思います。
 
 私の心は稚拙で単純です。正直であることをおそれずにいようと思いました。性根の座った文章で 肥やしになりそうです。そういう意味で 慈しむに値する文章だと思いました、しかし 難解さから逃げる人にも 幸があるかもしれませんよ。
 
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