あのポスト ( 2008 )/たりぽん(大理 奔)
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- ジム・プリマス 
- 未有花 
- beebee 
- 石瀬琳々 
- あおば 
- bambino 
- 西日 茜 
不思議な感じ^^
- 恋月 ぴの 
半ば自らの意思で出口の無い迷路を彷徨いつづけているような(^^駅シリーズといい、そんな感じがします。それは、ぴ@も一緒だったりしますけど(^^;
- 銀猫 
- 佐野権太 
- COCO 
- 渡 ひろこ 
- 鴎田あき 
- 大村 浩一 
- ルナク 
- LEO 
- モリマサ公 
- 北大路京介 
 
作者より:
ジム・プリマスさん 
未有花さん
beebeeさん 
石瀬琳々さん 
あおばさん
bambinoさん 
銀猫さん
佐野さん 
R.BALLOONさん
laverさん 
麻生 耀一朗さん 
渡 ひろこさん
鴎田あきおさん
大村 浩一さん 
肉切り包丁鈍器さん
ルナクさん
LEOさん 
モリマサ公さん
北大路 京介さん
 
ありがとうございます!

西日 茜さん:不思議ですよね・・・でもモデルになった村落は実在します。コメント
ありがとうございました。

イナエさん:徳山村は日本にいくつかありますがダムと連想すると岐阜の徳山でしょうか。沈んでしまった住所に届く手紙があればとか思います。コメントありがとうござい
ました。

緑川 ぴのさん:半ばというか完全にと言うか(笑)コメントありがとうございます。

ともさん:☆三つもありがとうございます!

〜 FENICS-ROAD 4 〜 私たちは速くなったのか?

 14.4Kbpsのアナログモデムでダイアルアップ接続するのがインターネットへの入
り口だった頃。そうNetscape NavigatorがまだVer2.0だった頃。そんな時代に
私は自作の詩とフイルムスキャナーでスキャンした写真をコンテンツとするWeb
ページを開設した。詩の文字列の一部をクリックすると別の詩のページに飛ぶという
本をめくるのとは違う「読ませ方」を狙ったりして結構楽しかった。しかし、アクセス
解析などという便利なツールが手軽に使える時代でもなくとても孤独な感じがした。
いつしか情熱は冷めて64KbpsのISDNが我が家にくる頃には更新することもなくなり
ページは閉鎖してしまった。そしてWebページを作ること自体に魅力を感じなくなっ
てしまったのだ。孤独だった。広大なネットの世界を旅するには私の船は遅すぎた
のかもしれない。

 その頃から、私は「ポスト」についてぼんやりと考えることが増えた。掲示板、ある
いは電子会議室に書き込まれた「詩」とWebページにアップロードされた「詩」の違い
について。掲示板や電子会議室は「場」としての体裁を持っていたが、Webページは
いったいどのような「場」にあるのだろうかと。あるいは講義で話される教授の話と
書架に並んだ教授の著作について。誰が読むのか特定しにくいという意味ではネット
上の掲示板も書架の本も同じようなものだし、手書きの文字だろうが文字コードを
振られた記号を文字と呼ぼうが「詩」そのものが内包する精神性や作者と詩の関係性
がそんなにぶれることはないのだろうと思う。書くことに限ればパソコンは単なる筆
記用具の一種でしかないのだから。

 違いはなんだろう。まず即時性。書き込んだとたんに読めるようになる。当たり前
のことだが、書籍ではそうはいかない。書き込んですぐに読めるのは自分のノートぐ
らいの物だ。この即時性がやっかいなのだ。チャットの文字列を「詩」であるといわ
れても「文字を使った通信の記録」なのか「詩として書かれた物」なのかの境界線は
即時性によって曖昧にされてしまう。速度が全てを曖昧にしてしまう。そして対称性
も。ここでいう対称性は主に「コメント」という特性に関して。書き込まれた文章に
堅いしてのコメントは勿論、書き込んだと同時に読むことが出来る。そしてそれは作
品と同じレベルで即時に読めるということだ。もちろんコメントを許可制にしたりと
いう限定をつけることも出来る。それはこの即時性が問題であるということの証明で
しかない。どんなコメントが書かれるかわからないので怖いのだ。もしこれが書籍だっ
たらどうだろうか。コメントはほんの隅の空白に鉛筆で書き込まれるかもしれない。
でもそれを即時に誰もが読むことは出来ないし、著者も永遠に知るすべはないのかも
しれない。しかし、書き込む本人はその違いになど気がついてもいないのだ。だから
行き違いが生まれる。ネットに書かれた著作と本の違いは「落書きできない」事なの
かもしれない。

 もう一つはポストに投函された手紙を取り戻すためにはポストを破壊しなければな
らない、ということ。反対にいえば破壊すれば手紙は読まれる前に取り返すことが出
来る。しかし、Webに書かれた作品は消すしかないのだ。誰かに読まれる前に?で
きるだろうか?
 
 製本された詩集が自分の見知らぬところで売られるということは、ポストに投函さ
れたまま忘れ去られた手紙に似ている。私はどこにまで届くのだろうか。見えない
暗闇の中に投げ込まれた言葉はどこまで、どこにまで届くのだろう。ポストに投げ
込むように放たれた言葉は誰に届くのだろうか。無料ブログがあちこちで開設された
ころ、私もこの新しい仕組みの可能性にわくわくした。自分でもブログを開設してい
ろいろと記事を書いた。それもすぐさめてしまう。ブログにはポストの暗闇がないの
だ。言葉はどこにも届かずそこに置かれたまま、来訪者の数ばかりを気にする日々
だけがあった。

 「現代史フォーラム」はポストとはほど遠い。しかし「掲示板」という仕組みでない
投稿システムに今は面白みを感じている。掲示板と同じようなルールや感性を持ち
込もうとすればたぶんズレていく。電子会議室のルールを掲示板に持ち込めばズレて
いくように。これから詩作品の投稿を起点とするコミュニティがいったいどこまで届く
のか。そんなことを興味深く思っている。「場」と「場」を比べるのはつまらないこと
だ。つまらないから私は比べない。

 現代史フォーラムに私が参加するにあたって一番最初に投稿した作品はそんな気
持ちから選んだ。

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=21193

さて、いま私は光ファイバーを使って、かつての何千倍もの速度でWeb上のコン
テンツをダウンロードすることが出来る。それで何か変わっただろうか。
いまだに暗闇に手紙を投げ込もうとする私。私たちは速くなったのだろうか?
ほんとうに?その速い船でどこまで届くのだろうか。越えていけるだろうか?
どこまでも。

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