作者より:
ちょっと追記的説明。
較べるのもなんですが、原爆で死んだ人ひとりひとりに違う生活があり人格があったように、ポイントひとつひとつにも違う意味があるので、いちがいにすべてのポイントまとめていっしょくたにして「たくさん入った嬉しいな!」と言うのはなんか違うのではないか、ということです。ポイントひとつひとつを重要視せよということです。
アフロ者さん
ふふふ、ありがとう。
現時点で突くべき点を突いたのはアフロ者さんだ。
ポイントは嬉しいです。
「素直に」嬉しいときと「ねじ曲がって」嬉しいときとありますが、
まあどっちにしろ、嬉しいです。
---2007/05/18 02:16追記---
渦巻さんの意見に納得したのでコメントの一部を削除改訂しました。
---2007/05/18 02:18追記---
無名生さんなどが指摘してくださった、
「ポイントを入れてほしくない人の名前」については削除いたしました。
私は、対話を拒否する人からのポイントがほしくないのです。
最近お騒がせしてもうしわけなかった相手とは、私信でやりとりして、
考え方はすれ違ったまま、和解に至りました。
そのひとの態度は終始立派でしたし、物書きとしての覚悟もあったし、
自分の文章の影響についてもはっきり自覚した上で、書いていました。
私は正しい意味で感服し、そのひとに批判的なコメントをつけないと約束しました。
そのひとを批判した私の散文投稿も削除しました。
(私は自分の文章が確かな悪影響を与えると自覚したときしか削除しません)
そのひとと私の考え方はすれ違ったまんまです。でも、認め合えたとは思いました。
私はそのような話し合いをしたかったのです。
私が対話を要求するのは、相手の態度ではなく考え方に疑問を抱いたときです。
それで詩にコメントをつけます。コメントで返事があったりなかったりします。
そして時には、自分で自分の詩を削除してしまう人がいるのです。
あるいはご自身のコメントを削除してしまう人も。
私は詩の削除など要求していません。
私が要求するのは、
自分の文章の持つ影響について自覚すること、
自分の文章の持つ隠れた意味について指摘されたとき自分の裏まで考えること、
ものを書く人間として自分の文章に責任を持つこと、
あるいはそのような物書きであろうと努力すること。
それだけです。
(それだけっていうかこれだけできたらすごいや、私ぜんぜんできてない・・・)
---2007/05/18 20:49追記---