批評しましょ[363]
2004 12/27 16:29
佐々宝砂

兎の毒さん退会で、半ばがっくり、半ばあきらめ。こういう事態になるかもなあと予測していたので、なんだか鬱になってしまった。私は、兎の毒さんの詩を悪いものじゃなかったと思う。短歌を知らずに短歌カテゴリに投稿したのも、決して悪気があってやったんじゃないと思う。そして、私は不運なことに、やませばが悪役であるとしても悪人ではないこと、実際には無神経な人間では全然ないことを知っている。はっきり言や、私の方がずっと無神経ですな。と考えると余計に鬱になるのでやめて、

ええと。

最近私は黙ってるほうがいいのかもなあと思い始めている。今年の秋くらいまでならともかく、いま、2004年12月27日現在の現代詩フォーラムにおいては、批評はもう必要なものではない、むしろ余分なものかもしれないとすら、考え始めている。私は詩人を育てるために批評をしようと思っているのではない。批評の書き手である私の欲望を満たすために批評をしようとしているのであって、作者側の感情など本当ならば考えたくもない。私の批評対象は作品であって、作者ではない。あるいは、作者であるとしても、それは作品と作者名をもとに私の頭の中で再構築された「幻の作者」であって、現実の生身の作者そのものではない。私にとって、作品と作者は不可分な存在ではない。

しかし、現代詩フォーラムは会員制をとっているから、誰かが退会するとごっそり作品が消える、発言も消える。それはシステム上いたしかたないことだと思っているし、自分の発言・作品を管理しておきたいと思う作者もいるだろうから、退会と同時にすべての発言や作品が消えるこのシステムは別に悪いものではない、作者に親切なシステムだと思っている。しかし誰かが退会するたびに、私は、否応なしに、「作品と作者は不可分ではない、かしれない」という疑いを抱いてしまう。そのたびに揺らぐのは、現代詩フォーラムのシステムではなくて、私の信念の方だ。

ま、どんなに信念が揺らいでも、ネットでものを書く「佐々宝砂」としての私の息の根を止めるのは、きっと、とてもむずかしい。私の作品がタフでないとしても、私はわりとタフだ。批評屋としての私は、幸か不幸かさらにタフだ。ふと気付くと、誰かの首を絞めかけていることがある、ただじゃれているつもりで、そんな程度のことで、誰かが死ぬとは思わなくて。作品が、きつい批評に耐えうる強度を持っていたとしても、作者がそれだけの強度を持っているとは限らない。そして、その逆もまた、真。

昔自分で書いた、有名な箴言のパロディを思い出す。

>タフでなければ批評できない。優しくなければ批評する資格がない。

私は上のを冗談で書いたし、今も冗談だと思っている。でも下のは冗談でない気分だ。

>批評を書きながら、かう考へた。知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに詩サイトは住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
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