■批評祭参加作品■ Poor little Joan!または視点についての雑感
佐々宝砂

『春にして君を離れ』
http://www.amazon.co.jp/dp/4151300813/gendaishiforu-22/

シェイクスピアのソネットからそのタイトルをとったこの小説は、ミステリの女王アガサ・クリスティーがメアリ・ウェストマコット名義で書いた一冊。ある意味ロマンスでもある。ミステリではないから誰も殺されない。何も盗まれない。しかしここには地獄がある、とこの本を読み終えた十八歳の私は考えた。まるで他人事のように。

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ミステリやホラーの叙述法は、ある程度分類され研究が確立している。ミステリの場合、かつては、謎の焦点が、

フーダニット (Whodunit = Who (had) done it)=誰が犯人か、
ハウダニット (Howdunit = How (had) done it)=どのように犯罪をなしとげたか、
ホワイダニット (Whydunit = Why (had) done it)=なぜ犯行に至ったか、

の三点のどれかに絞られるのが普通だった。謎が一つではなく複数のこともある。しかしいずれにせよ、視点は、多くの場合被害者または探偵のような第三者にあった。

しかしミステリという分野が成熟するにつれ、さまざまな叙述法が現れた。たとえば視点が犯人にある倒叙という叙述法。視点が犯人にあるのだから、WhoもHowもWhyも読者に明かされている。倒叙法ミステリのおもしろさは、謎を解き明かす点にあるのではなく、犯人の心理描写や犯人がいかに捕まるかのサスペンスにある。そんなんミステリじゃないやいと怒る人がいなかったのは、それなりに倒叙ミステリが面白かったからだ。視点ではなく叙述方法そのものにトリックがある小説もある。ここまでゆくと騙されるのは被害者でも探偵でもなく読者だ。

ホラーは被害者でなく読者を怖がらせるための小説だから、もっとあくどい叙述法をとることがある。叙述がややこしすぎて怖くないこともあるくらいで、ウォルター・デ・ラ・メアが代表格の朦朧法は、きちんと読まないと何が怖いかすらわからない。なにやら怪異があって、ほのめかしがあって、雰囲気だけは満点だ。ウォルター・デ・ラ・メアの「失踪」(東京創元社『恐怖の愉しみ』収録)という短編では、犯人(らしき人物)が通りすがりの語り手に自分の犯行を語る。語り手は犯罪の告白を聞きながら、それが犯罪の告白であると気づかない。語り手は、あーつまらん話を聞いてしまったと思いながら、凶悪犯の隣をそれと知らず通り過ぎてゆく。

つまり、語り手の言うことが信頼おけるとは限らない、のだ。ここんとこ心してほしい。語り手が嘘をつかず、観察眼に優れ、まわりで起きていることをきちんと認識でき、正気で、まともに叙述できる、と、誰が保証したか。誰も保証していない。「信頼できない語り手」はレトリックの一つとして認められている。決して禁じ手ではない。

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最初に書いたように、『春にして君を離れ』はミステリではない。だがミステリの手法を用いて描かれている。物語の視点は、女…そう…現在三十八歳の私より少し年上の女にある。既婚で、優しい夫がいて、子どもたちも結婚して幸せに暮らしている。と彼女、ジョーンは語る。ジョーンは若く見える。金銭的にも精神的にも恵まれていて、非常に自己評価が高い。だが、しかし…という点にこの小説のおもしろさおそろしさがある。

ジョーンは、バグダードからイギリスに帰る途中で汽車に乗り損ねて、何日か足止めをくらう。万年筆のインクがなくなるまで手紙を書き、読む本もなくなり、ただ考えることしかやることがなくなり、ひたすら自分の来し方を見つめ直す。そのきっかけになったのは、再会した古い友人ブランチの言葉だ。ブランチはジョーンと同い年のはずだが、生活にやつれ皺んだ老婆のように荒み果てて哀れだ(と、ジョーンは感じる)。ブランチは歯に衣着せずものを喋る。その言葉は、ジョーンにとって謎としか思えない。足止めをくらって暇でしかたないジョーンは、ブランチの言葉について考える。考えに考える。徹底的に、もしかして私の人生はあらゆる点で間違っていたのではないだろうか、赦しを乞わねばならないのではないだろうか、と思い至るまで。

書いてしまおう。本書を読めばわかることだが、哀れなのは皺んだ老婆と化したブランチではない。哀れなのは、若くて綺麗で朗らかで有能なジョーンなのだ。だからジョーンの夫は、彼女にむかって"Poor little Joan!"と呼びかける。哀れなジョーン! かわいそうな、虚しいジョーン! 夫に再会したジョーンは、自省して得たものをすべて忘れて、再びおぼろげな虚しい幸福へとかえってゆく。

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詩の視点はいったいどこにあるのだろうか、という疑問が、もう何年も前から私の喉にひっかかっている。私自身の詩は(意識的にそうしているから)おおむね視点が固定されているが、視点が揺れ動いたり視点が不明確だったりする詩は世に多い。そもそも視点がない詩もある。コンピュータプログラムで生成された詩には視点がない。切り貼りコラージュで生成された詩にも視点はない。

ホラーやミステリに慣れた私という読者は意地が悪い。作者が意図してないものごとを読みたがるし、わざわざ意地の悪い読み方をしてみたりもする。語り手が「信頼できない語り手」であると仮定して読んでみたりもする。哀しみに充ちた詩から快感をくみとったり、幸せな詩からむなしさを読み取ったりもする。作者に対して失礼な読み方だとも思えるから、私は自分の読み方をあまり公にしない。

時折私は、過去の自作に対してこの意地悪い読み方を試みる。哀しい時書いた詩から快感を読み取り、幸せな詩から絶望をくみ取り、そして、かなり、いやになる(笑)。私ってなんて大嘘つきなのかしらと思ったり、私って何にも見えてない、と思ったりする。でもまあいいや、これ過去作だしぃ、私今んとこ幸せだしぃ、と呟いて、私は再びおぼろげな虚しい幸福のなかに戻る。

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ボヴァリー夫人は私だ、とフローベールは言った。

私は思う、哀れなジョーンは、私だ。


2007.1.4.


散文(批評随筆小説等) ■批評祭参加作品■ Poor little Joan!または視点についての雑感 Copyright 佐々宝砂 2007-01-04 02:49:41
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