最終レレレのレッ!(付、遠州方言)
佐々宝砂

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そろそろまとめということで。

認めざるを得ないので言葉の変化を認める、という方向で私はいくつもり。もうしかたないもんはしかたない。明治の人は、一部の人を除いて、話し言葉や方言で立派な文学が書けるとは思っていなかっただろう。しかし、やがて優れた話し言葉の文学が書かれるようになり、今は方言で書こうが話し言葉で書こうが誰も気にしない。まあそんなものだ。「ら抜き」「れ足す」使用を主張するならば、それを使ってすげー文学を書いてみろ。「あめゆじゅとてちてけんじゃ」が私を感動させたように、私を「食べれない」で感動させてみろ。そのとき人々は完璧に「ら抜き」を認めざるを得なくなるだろう。だが、言葉の変化は、ただ表面的な言葉の変化だけにとどまるわけではない。明治の言文一致が新しい思想とスタイルを生んだように、表現方法と思想は常に結びついているものだ。ではいったい「ら抜き」の思想とはなんなんだろう。私にはわからない。私の思想は「ら抜き」でないからだ。

「ら抜き」について考えたとき、私の頭に浮かんだのは「ら抜き」の反対側にあるもの、すなわち文語体のことだった。文語は口語より文法がややこしい。しかしできあがった文章は口語より簡潔になる。単純に終止形にしてみればことは明白。当たり前の話だが「食べる」より「食ぶ」の方が一文字短い。文語体で書かれた文章が濃縮された雰囲気を持つ一方、口語の文章はのんべんだらりと間延びする。「れ足す」や未来言語ラツキ(笑)は、さらに間延びする。詩の世界、ことに俳句や短歌の世界が文語を残してきたのは、文語が短い濃縮表現を可能とするからだろう。情報があふれかえっている今、文語の簡潔さを好ましく思う。

「ら抜き」はともかく「れ足す」「ら付き」の思想は、よぶんな情報をいっぱいぶら下げたネットのツリー掲示板みたいなものになるのかもしれない。どうも私には暮らしにくそうな気がするが、それはそれなりに未来的なのかも、なあ。ああ、でも私は好かんなあ……好かんけどしかたないもんなあ……


と、古さを露呈したところで、またまた可能動詞について。

可能動詞の中には、可能動詞の原則「-eru」がつかないものがある。たとえば「できる」、「わかる」などだ。「れる」がつけば可能動詞という法則が定着した場合、これらはどうなるのだろうか。「できれる」「わかれる」になっちゃうのだろうか。「できれる」はいいとしても「わかれる」は「別れる」みたいでよろしくない気がする。こういう言葉は古い形で残るだろうと私は思う。

また、どうあがいても可能動詞にならない言葉がある。「続レレレのレッ!」であげた例文にでてくる「落ちる」がそうだ。「落とす」という他動詞なら受身にも可能にもできる。しかし自動詞「落ちる」は可能動詞にならない。「落ちる」という言葉は意志を伴わない。ものは自分勝手に自発的に「落ちる」のである。文脈によって受身(この場合おそらく「迷惑の受身」)にできるかもしれないが、まず可能の意味は持たない。主語を人間とする動詞でも、可能動詞にできないものはざらにある。「育てる」は「育つ」の可能動詞ではない。「疲れる」「飽きる」「似る」等々、人間の意志に反して起きるかもしれないことがらは、可能動詞にできない。

非情物を主語にする動詞も可能動詞にできない。「雨が降る」の「降る」は可能動詞にできない。「光る」「要る」「有る」「燃える」「消える」「鳴る」「照る」「流れる」「乾く」などなど。こういうのは無理矢理「迷惑の受身」にできる……かもしれないけれど、とにかく可能動詞にはできない。

「れる」がつけば可能という法則が定着したとき、これらの言葉はどうなるのだろう。これらには「れる」をつけることができない、という意識は残るのだろうか。せめてその意識は残っていてほしい、と私は思う、言葉の変化は避けられないことだとしても。


***

付・遠州方言

私は駿河(静岡中部)生まれの遠州(静岡西部)育ち、喋る言葉は遠州方言だ。東京の言葉とそう違わないのであまり面白くない方言だが、それでも少しは面白いものがある。というわけで付録。

○助動詞

・「動詞未然形+まい」→「〜ましょう、〜しよう」
遠州人の気質をあらわす言葉として「やらまいか」というのがある。これは「やりましょうか」という意味だが、標準語の「やろうか」よりずっと語感と意味が強烈。しかし知らない人には否定の推量「〜まい」と同じように聞こえるらしく、「やらない」という意味にとられることがある。しかしその逆もある。かつてうちの近所の山道に「やらせまいローリング走行」という立て看があって、これはもちろん「やらせないようにしよう」という意味なんだけれども、遠州方言だと「やらせよう」という意味にもとれてしまうので問題視されていた。最近は「やるな!ローリング走行」と書いてある。

・「動詞連用形+ない」→「〜なさい」
若い人でも割と普通に使う。「やりない」「行きない」で「やりなさい」「行きなさい」の意味になる。知らない人が聞くと否定に聞こえる。「見る」「食べる」など一段動詞につくと「見ない」「食べない」になるので、否定なのかどうかなおのこと判別できない。アクセントも否定の「見ない」「食べない」と同じなのである。五段動詞の「聞く」につく場合は「聞きない」になるので形がちがう。標準語の命令「〜な」(聞きなとか、やりな、とか)に「〜い」がついたと考えるとわかりやすい。

・「終止形+に」「〜だに」断定の終助詞?
「行くだに」と「だ」を伴って使われることが多いが、「行くに」でもまあおんなじような意味。断定の意味だけでなく誘いかける「〜ぞ」みたいな意味でも使われる。

・「終止形+ら」「〜だら」「〜ずら」推量の助動詞
「〜だろう」の意味。形容詞にも動詞にもつく。「やかましいら」「安全だら」「行くずら」などなどのかたちで使う。標準語の推量の古いかたち「〜らし」が訛ったのだろう。「〜ら」はかなり軽く使う。「〜だら」は、「あんた明日の飲み会行くだら?」てな感じで確認するときに使うことも多い。「〜ずら」は「〜だら」とほぼ同意義、若い人は使わない。

○形容詞(若い人はあまり使わない)
・「らんごかない」
「らんごく」ともいう。たぶん「乱れの極み」であろう。私の部屋のように散らかり放題ごちゃぐちゃどちゃずちゃの状態を言う。
例→「らんごかない部屋だで恥ずかしいやあ」

・「みるい」
未熟なこと。こどもにも、植物にも、動物にも使う。お茶の若芽のことをお茶市場の世界では全国的に「みる芽」というが、もともとは静岡の方言。市場を制するものが言葉を制する代表的な例。

・「ひづるしい」
「ひづらしい」とも。眩しいこと。たぶん日がつらいのだろう。

・「ごせっぽい」
すっきりすること。
例→「あー痰が切れてごせっぽい」


○そのほか
「おすんばあ」照れ屋。
「ささほうさ」散らかっていること。
「ふんだらごっこ」ささほうさよりささほうさなこと。
「はだって」故意に。わざと。
「ばんばへび」カナヘビ。


散文(批評随筆小説等) 最終レレレのレッ!(付、遠州方言) Copyright 佐々宝砂 2004-03-10 12:06:48
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