技術論とミロのヴィーナス
いとう


(まず誤解の無いように記しておきたいが、これは原口昇平氏の言及(http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=781&from=menu_d.php)に対して真っ向から批判するつもりで書く文章ではない。)


 私事だが、批評という行為について現在かなり悩んでいる。何を以って「批評」と捉えればよいのか、あるいは、何を理想的な批評とすればよいのか、その(自分なりの)指針を把握しきれないでいる。試行錯誤、手探りで進めている状態だ。

 現状では、技術・修辞・構造を中心とした評をよく書く。もちろんこれがベストだとは考えていないし、また、批評はすべて技術や修辞について言及すべきであるなんて毛頭思っていない。原口氏が述べている「修辞法や技術論を基準にすえた批評行為には致命的な欠陥がある。それは作品の作品内意味のみをすくいとるといったことでは当然有効ではあるけれども、名付けようのないもの、たとえば作者がその作品を書かなければならなかった理由にまでは決してたどりつけないし、そもそも予めそんなことを視界のうちに置いていない。」という意見には深く賛同する。それが「致命的な欠陥」であるかどうかは意見を異にするが。

 私自身が技術等への言及に向かっていったのには理由がある。いわゆる印象批評から脱却したかったのだ。印象批評は、客観的な根拠からではなく、自らの主観を根拠として作品を論ずる批評形態である(と思っている)。そこには当然ながら「私」が入り込むのであるが、批評においてこの(評者の)「私」を前提とすることに私は疑問を感じるのだ。

山田せばすちゃん氏は「発表された瞬間に詩は作者だけのものではなく読者と共有されるものへと転位するのだ。」と、http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=834&from=menu_d.phpにて述べている。私も同意見で、それを基に、共有されやすさを目指し介在(仲立ち)するものが批評であろうと考えている。そこに「私」は似合わない。「私」を伴う存在が介在しようとすれば、それは「介在」になり得ず、「私」の提示に留まるだけか、悪くすれば「私」の押し付けになってしまう(と思う)。「私」からの脱却を図ろうとすれば、それはある種、自然な成り行きで、あるいは選択肢のひとつとして、技術等を中心とした批評へ向かうのかもしれない。事実私は、様々な過程を経ながらも、そこへ向かわざるを得なかった。(と同時にもちろん「私」を前提とした批評があってもいいと考えている。すべての人がそこへ向かわなければならないわけではない。)

(余談ではあるが、その「過程」の中で、随分と失礼な評を書いてきたと思う。ここで謝っても仕方ないが、言及はしておきたい。と同時に、もちろん、現時点もまだ「過程」に過ぎない。)

 ミロのヴィーナスの美しさを技術論から語るための可能性について考えている。原口氏の言うとおり、「ないもの」については書けない。それは確かだ。しかし、「ないものがある」ことについては言及できる。これは単なる言葉遊びではない。腕がないからこその美しさを技術面から語るとすれば、「腕がない」という状態がある、すなわち、ある詩作品に対して批評者が求めるものがないという状態(それは(評者にとっての)欠落かもしれないし、余剰かもしれない)を認識したうえで、それが(詩作品にとっての)欠落でも余剰でもないことを示すことになると思う。実際に行っている評者がいるかどうかはわからないが、方向性としてはそのようになるのではないか。「私」から脱却しようとするのであれば、それは到達不可能な地平ではないはずだ。

(上記を読んでも、「(たとえばそのシステム上、)技術論中心では、ないものがあることについて言及できるわけがない」などと思う人がいるのなら、それは私の想定する「技術論重視の批評」とその人の想定する「技術論重視の批評」が異なっている可能性がある。違うものについて同じ言葉で語っているのかもしれない。)


 ここまで書いて、問題なのは技術論中心であるかないかなどといった批評の方法論ではないかもしれないという考えが頭をよぎる。技術についてまったく述べられていないものでも、腕のなさを美と思わない評だって巷には溢れている(もちろんそれを以ってそういった批評の方法論に欠陥があるとは、私は思わない)。問題なのは、(曖昧な表現になって申し訳ないが)見る角度ではなく、見る姿勢なのではないだろうか。「腕のなさ」を美と感じるかどうかが分岐要素であって、「腕のなさ」をどこから見るかは関係ないのかもしれない。技術について言及しているとしても「美」を見出すことはできると思っているし、技術論を以って腕のなさを批判したり付け足したりしているのであれば、それは、私の言葉で言えば、「技術論的側面からの添削、あるいは印象批評」に過ぎない。


以上、原口氏の言及をベースに自分なりの考えを述べたが、これが、ない腕に勝手に腕をつけるグロテスクな行為になっていないことを祈っている。もちろんそのようなつもりはないが、もし無自覚でそのような行為を行ってしまっているのであれば(そのような指摘があれば)、その指摘を元に内省していきたい。書くことに対して、もっと慎重になっていきたい(もちろん今でも慎重なのだが、それ以上に)。と同時に、考えるきっかけを与えてくれた原口氏に感謝したい。




散文(批評随筆小説等) 技術論とミロのヴィーナス Copyright いとう 2003-07-29 17:55:52
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