音阿弥花三郎

試みに彼の鞄を持ってみる。
牛皮製らしいそれは大きさばかり目立つが相変わらず軽い
きっといつものように家族が入っているのだろう
そのことは彼から聞かされている
彼は信用するに値する人物なのだ
だから中身の真偽を詮索する気はない
もっとも私自身に詮索の方法がない
ジッパーもなければ留金もない
なぜなら彼の鞄には口がないのだ
ナイフで切り裂くと言う手段があるが
それはやり過ぎというものだろう

ジクジクと融ける鞄
私の視野から逃れもしない

彼は毎日と言っていい位その鞄を持って私の家にやって来た
夕食を終えてぼんやりテレビを見ていると
玄関で嫌に元気な声がして、彼である
ある日は午前中にやって来て、訳を訊くと
「帽子が今朝なくなった 出勤はひと先ず止めです」
と裸足のままジャンプする

口臭か
臭いはするのだが
わからない

彼は何かのセールスマンらしく
謂わば苦労話のようなものをするが
そんなとき 彼はいかにも嬉しそうだ
いや私は彼の不機嫌や憂鬱を見たことがない
「首を絞めたって買わないやつは多い」とか
「挨拶をしたら殴ってきた不動産屋と飲みに行った」
という話をしている彼はジッとしている事はなく
笑い転げたり目玉をぐりぐり回している

動悸が高まる
遅すぎた後悔が鞄に伝わり
ゆっくり揺れている

その彼がまったく来なくなってしまった
彼の方から一方的に来ていたこともあるが
誰も彼の住所を知らない

音する鞄
しかし聞くべき音ではない

彼が置き忘れて行った鞄がもう一年近くも
私の書斎の隅にある
毎日ほこりを払ってやるが
私はなぜか一切のことが手に付かず
家族の入った鞄の側を離れられないでいる


自由詩Copyright 音阿弥花三郎 2004-02-26 16:56:15
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