遺書(ショート&ショート)
虹村 凌

私は、もう一時間もこうしてパソコンの前に座っている。
書こうか、書くのを止めようか、迷っている。
しかし既にこうして指を動かして居るという事は、
私自身の意志は書く事を選んだのである。

私の意志は、今、死に向かって動いている。
何故なのか私にはわからない。
金が無い。
バイトが決まらない。
稽古に出られない。
舞台に立てない。
雨が降っている。
昼飯が喰えない。
体中の筋が痛い。
理由を数えれば、誰かを殺す理由を見つけるように、
簡単に出てくるモノなのだと、今初めて気づいた。

私は将来が真っ暗な訳でも、華々しく輝く訳でもない。
今現在、不幸のどん底に居る訳でも、幸福の頂点に居る訳でもない。
確かに私は、漠然とした不安、焦燥感、恐怖に駆られる。
果たして生き残れるのか。
私は使える人間なのか。
私は見放されやしないか。
そして私は、同時に漠然とした安心感、安定感、幸福に包まれる。
私は今現在、何の苦痛も無く生きている。
自由を求めるまでもなく、自由を得ている。
そして愛すべき人達がいて、彼らは私を愛してくれている。

全てが未確認ではある。
しかし私にとってはそれでも充分なのだ。
ただ、この何の変哲もない状況にあるからこそ、死を選びたいのだ。
何も雨が私をこうさせた訳では無い。
電車が来ないから死にたいのでは無い。
起きたら虫に変身して居た訳でも無く、毛唐であったり、
広大な大宇宙で戦闘を繰り広げていたり、雪国であったり、
横で寝ていた者と魂が入れ替わったり、神のお告げを聴いたり、
此の祖国に絶望した訳でも、詩の世界の未来に絶望した訳でも無い。

私は祖国を愛し、コケにし、欧米を愛し、コケにし、
詩を書き、コケにし、生きる事を愛し、コケにし、
常に二つの感情が入り乱れているのである。

誰かが、ナイトクラブやストリップクラブは、
世界で一番綺麗な場所だと云った事があった。
酒、女、金、全ての欲望が入り乱れ、
リズムが加わり、光が其れを照らし出す。
世界で一番美しい光景だと云う。
確かに美しいとは思うが、一番美しいのは、人間の奥底に潜む、
この醜き精神や思想のマーブル模様であると私は信じている。
混じりけの無い、他人の干渉出来ない、純度100%の模様。
それが、私を死に向かわせるのである。

敢えて繰り返し云う。
私は、平凡と云う平原又は海原の真ん中にいるからこそ、
私は目の前に或る死のスイッチを押したいのだ。

幸福の絶頂に居る時に、果たして人間は死を選択出来るのか。
私は其れは不可能であると考えている。
人間は欲の深い生き物だ。幸福の中に居るとき、誰が死を選ぶのか。

絶望のどん底にいる時、多くの人は死を選択するのかも知れない。
月曜日の朝に、サラリーマンが飛び込み自殺をするように、
苦悩や恐怖から逃れたい一心で、死を選ぶのだろう。
しかし私は、どん底にいる自分を、死で縛りたいとは思わない。
ならば、頂点でもどん底でも無い、真ん真ん中に居る時こそ、
死と云う選択肢を最も良く見られる状態では無いのか?
私はそう信じている。

私は此の世に生を受け、両親の元で21年間生き、
様々な人間に会い、刺激を受け、情報を遣り取りし、
仲間に出会い、裏切られ、愛し愛され、憎み憎まれ、
私は幸福で不幸な人生を歩んで来た。
全ての関係者や発生した事象に感謝している。




私はここで指と止めたいと思う。
指と止めた後取る行動は、云うまでも無いだろう。
最後まで読んでくれて、有難う。
また何時か会いましょう。
今世か、来世か判りませんが、また、会いましょう。

又、会いましょう。








私は絶望的な気持ちで、冷たい彼女の遺体を抱きしめた。
彼女の髪の薫りは、彼女直筆の遺書と同じ匂いがした。


散文(批評随筆小説等) 遺書(ショート&ショート) Copyright 虹村 凌 2006-06-09 13:39:31
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