折れずに伸びよ、タケニグサ
日雇いくん◆hiyatQ6h0c

 タケニグサはケシ科の多年草。毒草であるが、虫刺され、便槽に沸く蛆などへの殺虫剤に昔はよく使われていたそうだ。
 私がこの草を知ったのはかなり小さな頃からだった。中空になっている茎を折ると、黄色い汁が滲むように出てきたので、それでよく絵など描いてあそんでいたものだ。実家が森に近く、何時とはなしに誰かから聞いて、よく生えていたこともあって覚えたのだろう。
 別に何の変哲もない、どこにでもある田舎の森だった。さして植物に興味はなかったから、スギの木が多かったこと以外にはよく覚えていないのだが、多分同級生の誰かにそんなことを教わったのだろう。クラスの中に一人や二人は、そういう置かれた環境を巧く利用してあそぶ者がいるものだ。
 そういえば、キクのように切れ込んだ、裏が奇妙なくらい白々としていた大きな葉を、夏の暑いときに団扇がわりにしてよく扇いでいた事もあった。茎に弾力があってよくしなるので、扇ぎやすかったこともなつかしく想い出される。
 そんな、郊外や空き地などにいけば普通に生えている雑草を、訳があって、私は大切に育てている。


 私は、実はもう3年も、自分の建てた家に帰ってない。つまり家出ということだ。
 何故そんなことをしたか、と言えば多分ありふれた話ということになるのだろう。私はかって、世間では名の知れた運輸会社の配送課長をしていた。仕事はまあまあ出来た方だったと思う。家庭も、よく気のつく優しい妻に、かわいい子供が二人、マイホームも、実家の援助を仰いでどうにか持つことが出来、何不自由はなかった。忙しくはあったが、子供たちと接する時間が取れないほどでもなかった。休日には遊園地やオートキャンプ場、自然公園等に連れて行き、我ながら良きパパぶりを発揮していたと思う。
 そんなある日、私は突然体に変調をきたした。
 いつものように朝6時に起き、朝の支度をすませて、妻と子供達に見送られながら家を出発し、いつもの時間に電車に乗った後、会社まで歩いていた時の事だ。
 急に、心臓に差し込むような、激しい動悸を伴った痛みが体中を駆け巡ったのだ。
 ドクン、ドクンと、心臓が、駆け足で鼓動を打つたびに、そこだけが、他の身体を残してほんの数ミリ浮かびあがってしまうような、激しい痛みだった。そして自らが起こしている鼓動に呼応して、ますます強く反応してしまい、やがて身体の外に出てしまうのではないかと思う程、激しくなっていった。
 普通に歩く事は出来なくなっていた。顔からはネットリとした脂汗が噴きだし、手足も痺れているように震えて、蹲る事くらいしか出来なくなった。それでもなんとか、そんな状態の手を強い気持ちで抑えるように頑張りながら、携帯電話で会社に連絡した。そうしてから、時間をかけつつ、身体をごまかしながら動かして、這うように病院に辿り着き、診察を受けた。
 「特に身体自体に、異常はみとめられませんねえ」
 私は医者の言葉を聞くと、処方された発作止めだけをもらって服用し、痛みがどうにか治まるのを待って、その医者の紹介で近くの心療内科の門を叩いた。なんでもパニック障害の疑いがあるという事だったのだが、私の専門でない、と言う事だったので、親切に教えてくれたのだった。
 結果はやはり、パニック障害と診断された。
 パニック障害……動悸、発汗、過呼吸、呼吸困難、死の不安、めまい、身震い、胸痛などの、心身におよぶ強いパニック様の不安発作、また予期不安。さらに、外出不安、乗り物恐怖、1人でいる不安へと、その発作要因や症状がどんどんエスカレートしていくやっかいな病だ。しかし治療が割合容易だという医者の言葉を聞いてとりあえず安心し、薬のおかげで発作が治まったこともあって、その日はまっすぐ家に帰り、日課であるはずの、子供たちの相手もせずに静養した。
 しかし、仕事をこなしつつ頑張って治療を受けてみるものの、一向に病状の改善は見られなかった。むしろひどくなる一方だった。あらゆる治療法を拒絶するかのように、身体は私の言うことを聞いてはくれず、度重なる発作に苛立つ私を、妻や子供たちもだんだんと避けるようになっていった。その回数は日を重ねるごとに増え、そしてとうとう、さしたる日数を経ずに、会社に休職届を提出する事態となった。私は外に出る事さえ少なくなり、そしてふさぎこむようになった。何もしたくなくなっていた。
 会社を長く休み、中年にもなって引きこもりと化した私だったが、それでも時が経つにつれて、少しずつ症状が軽くなってきた。そうすると現金なもので、外に出てみたくなって、身体を慣らしていく事も兼ねて、近所を散歩するのを楽しむようになって来た。妻は世間体からか、あまり私が外出するのをよしとしてはいなかったが、あなたが良くなるのだったらと、なんとか我慢してくれた。子供達も、明るいパパが戻ったと、喜んでくれた。申し訳ないと思うばかりだった。幸いわずかばかりではあったが、預貯金もあったので経済面での心配はなかったから、病気でではあるが、せっかくの長期休暇をもらったようなものと考えよう、とにかく楽しもう、そんな風に考えられるまでになっていった。
 そうやって散歩を楽しんでいた夏の盛りのある朝、私はたまたま家の裏手にある、雑草ばかりの手入れもされていない空き地に、一本のタケニグサを見つけた。
 子供の頃よくこれで遊んでいたなあ、と懐かしい想いが湧き、しばらくじっと見つめていた。まだ成長途中らしく、5、60cm程のものだったが、じき2m程になるだろうその草の成長を楽しみにしようと思い、その日からそいつに「タケ」と安易に名前を付け話し掛けるようになった。しばらくしないうちに「タケ」は見る見る大きくなっていき、いつしか私の背丈を越すようになった。「こいつ、なかなか生意気だな。私より大きくなって」と、「タケ」に毒づいてみながらも、私は自分の病状の改善と草の成長とを重ね合わせ、なにか嬉しい気持ちになった。「よし、私もお前に負けないように頑張ってやるからな」そう、思った。
 やがて、「タケ」は2m程にもなり、茎もすっかり太くなって、立派に成長していった。夏の日差しを浴びて凛々としているその威容には、圧倒される程だった。私は、非常に勇気づけられて、よし、頑張ろう。そして再び職場に復帰して、一家を再び支えて行こう。と思えるまでになったのだ。タケニグサは、秋には実をつけるから、それを大事にとっておいて、今度はその実から私が育てよう。勇気づけられた分まで大事にしていこう。そんな事も考えた。
 しかし「タケ」は、十分な実をつける前に、あえなくその成長を止めたのだった。
 夜遅くに強い風が吹いた日の翌朝、雨が降っている中、私がいつものように空き地に行ってみると、乱れ切った雑草とともに、無残にもあの竹にも似た太い茎が、真ん中程からポッキリと折れ曲がっていた。かっての威勢のいい姿は、雨ざらしという事もあって、すっかり打ちひしがれていたのだった。
 私はそれを見た時に、大きく立派な姿とはうらはらに、脆く儚かったその「タケ」と、自分を重ね合わせた。
 頑張って成長しようとして大きくなるけれど、望み通り成長したそのとたんに、強く風が吹いた事くらいで壊れてしまう「タケ」の目を覆うような有様と、働き続けて家を買いささやかな家庭を守ったあげく、パニック障害を患って壊れてしまった自分が、その瞬間私の中で、繋がっていったのだ。
 私は「タケ」の残骸を拾い集め、家からスコップを持ち出し穴を掘り、埋めた。泣きながら埋めた。埋め終わると、止まらない涙とともに雨に打たれながら、長い間そこに佇んでいた。
 私は、今までの生活すべてが怖くなった。分不相応だったのだと、思えてきたのだ。このまま仕事に復帰できても、「タケ」のようにポッキリと折れてしまうのではないか、と。
 気が付くと私は、家にもう帰らないという旨の書き置きを残し、とりあえずの金を持つと、電車に飛び乗り、あてのない一人旅に出てしまっていた。早まったかとも思えたが、旅を続けているうちに、いつのまにか発作は起こらなくなった。そしていつしか木賃宿に泊って、日雇いの生活をするようになったのだ。


 そんな訳だ。妻、子供には、本当に悪いと思っている。まったく身勝手な男だと、我ながら思う。しかし、あの生活を続けていれば、今みたいに、発作におびえずには暮らせなかっただろう。私はタケニグサのような男なのだ。立派そうに見えるのかも知れないが、脆い男だ。だから、これ以上自分が壊れていくのにも耐えられなかったし、それに可愛い妻、子供たちを巻き込みたくもなかったのだ。
 その代わり、この宿の庭に、あの「タケ」の種から成長したタケニグサを、大事に植木鉢で育てている。もう会うことのないだろう、私の子供たちのように、大事に。
 もちろん支え棒付だ。もう無残な姿を自分と重ね合わせて泣きたくない。
 お前もそう思うだろう? なあ、「タケオ」。




散文(批評随筆小説等) 折れずに伸びよ、タケニグサ Copyright 日雇いくん◆hiyatQ6h0c 2006-05-10 14:38:51
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