夕焼けが眠る川
mina

ピアノバーで
その男は
いまでも
ピアノを弾いているらしい

アップライトピアノが
備えつけられている
小さなバーで

*

夕焼けが
川のどこかに隠れていると
聞いたのは
ずいぶん昔の話だ

通り雨の落ちる
川のどこかに
眠っている夕焼けが
あると

木立に絡まった雲の裾が
冬日に揺れる暖かい日だった

わたしはその朝
窓から薄紫に広がるグラデーションの空を目にした途端
君の顔がみたくなって
一対のコップと魔法瓶をもって
川原に出掛けようと電話ごしに 起き抜けの君を誘った

魚が泳ぐたびに
水面の群青色がまわって
映る空の儚い透明さと
音のない旋律を奏でていた

夢のなかにまだいるようだね と
わたしたちは言い合い
注ぐコーヒーから立ち上る湯気を
追いかけるともなく 見上げたりした

君は そのとき 何か大切なことを言いたかったのではと
いまになって 思う

光の粒が小さな蝶になって
世界を祝福しているような穏やかな日に
目蓋に落ちる光が
閉じた暗闇がその熱で赤く染まるなかで
聞こえてくる 川のせせらぐ音に

半透明になっていく体を
ただ隣に寝転ぶもう一つの体にゆだねていた わたしに


探しているんだ
君は まだみたことのない夕焼けの話をし
もう亡くなった曾おばあちゃんに聞いた話
曾おじいちゃんと 遠い別れになるかもしれない夜に
一緒にみたという
草木や魚たちの密かな寝息が漂っている川辺で
曾おばあちゃんは 声も立てずに涙を落とし
ただ この時が止まってくれるよう願っていた

曾おじいちゃんは その夜多くの言葉を語らず
みてごらん と
橋の真下の暗闇を指差した
淡白く光る指先の先には その指先の延長のような
光を発するものがあった
曾おばあちゃんの涙を抱えた瞳には
それが 夕焼けにみえたそうだ

あそこに 僕の気持ちを置いておくから
曾おじいちゃんは そう言って二度と帰らぬ人となった

*

夕焼けが
曾おじいちゃんの指先から生まれたと信じる君は
曾おじいちゃん譲りかもしれないその美しい指先で
ピアノを弾き始めた

どこか わたしの知らない小さな町角の
小さなピアノバーで
わたしが受け取れなかった言葉の意味を込めて

通り雨が落ちる川のどこかで眠り続ける
夕焼けを
探しているかのように


自由詩 夕焼けが眠る川 Copyright mina 2006-05-06 10:08:52
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