田代深子『猿精』
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ぜんかい嘘だという書き出しで書いたらしこたま怒られたので今回は嫌いだとでも言っておこう。それとものっけから好きだと言っておいた方がいいのか、それは気持ち悪いよな。好きです、この詩! 好きです、ライオン! 子供たちが、大好きです!! おれがそういうことを書いたらみんな信じて真面目に読むかと、ライオンから洗剤が届いて、子供たちが駆け寄ってくるのかと疑問を投げかけて、それはないなと回答を得る。こういう当たり障りのない書き出しを書こうと必死に悩んでおいて、三十分かかっているわけだが、実際書き出しを悩むというのはだれにでもあるようなことだ。おれの場合は特殊なケースが絡んでいたとしてもだ。田代深子の猿精という詩からまず最初に感じ取ったのはその辺だったので、リズミカルに書くべくしてこの詩はあったのかという点から攻めていこうと思う。
この詩は総じてリズムに支配された詩であるといえる。のは、段落と空白のバランスの良さから生まれてくるものだ。から、そこに存在させようとしてばらまかれている各種の言葉の意味がそのまま脳で理解されずに読み進められていってしまった。けど、そこに先程の懊悩のようなものを受け取り困惑した。すなわち第一連第一行の文章だけがなにか際立って妙だということを受け取った。脳が。その一行を見つめている限り永遠に前に進めない気さえするそれはまるで錨、イカリのようだ。それは題名ではなかったのかという気さえしてきた。おそらく勘違いだが。その錨を切ってしまえば詩のリズムは、船というよりむしろ列車の如きはやさと心地よさで飛び出していく。なぜ言葉が一読して入ってこないかといえばその詩がガタタンガタタンガタタンゴーッゴーッゴーッゴーッガタンガタンという風に読めてしまったからと答えるしかない。乗車したにもかかわらず窓をカーテンを閉ざしていたようだった。弁当など買っている場合ではなかった。旅情を楽しむために窓を開かなければならない。詩情を楽しむために瞳孔を開かなければならない。先生、重症です。
窓の外には風景だ、でっかく捕らえれば世界だ。世界をつくるには、たとえばイザナギと他一名があれやこれやしたりするんだけど、世界をとりつくろうには、どういうことか、どうしたらいいか、今考えていくわけだけども、それは世界をつくるよりはよっぽど楽な体験といえる。周りを閉ざしてしまって見えるものを制限すればよろしい。考えられないものは最初っから無い方がいい。世界は地球はまるいけれども、あくまで究明されたからであって本当は世界の果てがあった方が望ましいファンタジーだ。必要に迫られなければ遠い土地を開墾しない。今彼の中には世界があってその世界を別のひとりに明け渡す、知らせる、通告する、そういった必要があるが、かといって必要でないものを伝える必要はない。日本の周りがすべて海であったとそのとき知らされても、さしたる不都合はない。海外のことを知る代わりに海の内側、すなわち国内のことをより多く知るからだ。知るという行為のためにはその方がいいかもしれない、もっとも日本の外が全部海だということを今更言われても、は? と思うだけだけど。今彼の中には詩の世界があってその世界をひとりのにんげんに通告する。そのとき明け渡す、開示する情報を少なくすることはその面では非常に好ましい。そして彼はそれに成功している。
すなわちこの詩には重複する単語が多いということだ。おそらくは焼き付いた強烈なイメージによるこの表現は発展を望まずに焦げるまでそこに焼き付き続けることを望んだ。ましらという言葉が調べても調べても出てこなかった(wikiの索引で一番近いものの名称に「マジレンジャー」とかがあったよ)ので、造語だと信じたいけども、それはそして人名あるいは固有名詞だと考えるけれども、造語による部分的な所有感もまたイメージが一般的というよりは個人的な部分と大いに結びついていることをあらわすものであろう。そのイメージ、所有者自身の手垢の付いたイメージは彼が所有する土地に大いに焼き付いていて、その他に何もないことを強調していた。
だから窓から見えたものは部分的な焦土であった。しかるのちに列車もとまった。ガタガタいわなくなった。この詩の題名、それもまた猿精という造語であった。そのことを確認させるための旅程であった。