批ギ いと/桐原/銀狼/今猿
黒川排除 (oldsoup)

いとう『はじめての王国』
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桐原 真『早朝』
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銀狼『時間に線を引く』
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今猿人『イソップの詩法』
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いまかんがえてること
わすれr
やるきをなくしていたが
ようやく おもいこしが


 ご飯を食べながらテレビを見るように、音楽を聴きながら文章を書けたらと思う。実際は音楽を聴いているときは手が止まってしまうのであり、文章を書いている時は音楽が鳴っていてもまったく聞こえない。集中していると言えば聞こえはいいけど、要するにやるべきことはたくさんあるのに一つずつしか片付けられず、よって一つのことを考え、そして別のことを思いつき、ちょっと次の行動に移ったとたん、今まで考えていたことを何もかもすべて忘れてしまう。そういうわけで批評について考えていたことを二度三度失っているのでちょっとやる気というか物理的材料にも欠く始末、どうやって書いたらいいんだという無意味な自暴自棄からようやく復帰してやれ書こうと思ったら、ひとり退会していたり。負担が軽くなったと言えばいいのか駒が足りないと言えばいいのか、ともかく最初のひらがなだらけの覚え書きなんか忘れて、再度考え直しつつ書くのであった。

 とここまで書いて14日が過ぎた。ひらたく言えば2週間であり、麻と糸を2度買ってきてもまだ余ってるぐらいの時間ではあるけれども、その間に、まあ書いていて、書いたり削ったりセーブしたりを繰り返しているうちに突然アプリケーションが異常終了してウワーと思ってたら一行分しか失われてなくてよかったよかったと思いつつこうやって字数の足しにしていく様は貧乏人丸出しであるところのオールドスープがお届けして参りますが、ともあれパソコンとは難儀なものであって、というところから書き始めたい。書くという作業にはもはやパソコンがありさえすればいいんだけど実際鉛筆というものの魅力というか利点もあるのであって集中を促すところがその利点の一部であると思われるのであってパソコンでばっかり書いているおれは要するに書くときにあんまり集中してないことが明るみにされるわけであってそれはどうでもいいんであって。書くという作業は本来は筆記用具で紙などに筆記することを前提としているわけだ。その筆記用具の代表として鉛筆をあげることができる。あげることができるというかおれがあげたいだけだけど。鉛筆は書くたびにすり減りすり減るたびに削りいずれは使えなくなるものであるがたいていのひとはそんなことを気にも留めないしまた留める必要もない。無関心であるところへ、学校の教師なんぞが、森林伐採がどうだとか、そのエンピツの鉛を採るために真っ黒になるまで固い岩盤を掘り続けて鉛を吸って死んでいく人たちがいるんですよ、先生やめてえっみたいな衝撃を与えられ何とか有用に使ってやろうなどと考えたのもつかの間、大人になるまでそんなことを意識している子供もいない。ムラサキカガミって覚えてたかよ? みたいな感じだ。というわけで鉛筆というのは無用に使われ無用に削られていくのがよろしい。

 いとうの『はじめての王国』を見るにそういった削れていく王国の姿が見えるようだ。侵食という意味合いが強そうだが、これはこれで有用にというか無用に削れていってるしまたそのことが肯定されている雰囲気ではある。健全であるかもしくは不健全である精神がどうにか間違って物体に意志を与えるしそれがまた詩を書くことであり詩人であるからして彼の中で町が生きることだって当然ある。じぶんが住んでいる町を生命としてとらえることは許されている。彼は町を嫌っているが彼は町に愛されているとか何とか、町に愛された子供というとなんだか町長の娘みたいな感じではあるが。それが架空のもの想像のもの、あるいは実際あるけど遠いものに求められたとしても不思議なことではない。王国は生きている。じじつ王国という言葉は何度も詩に登場してきているというか介入してきている。それは平易さの強調にほかならない。途切れている言葉同士から何かを見いだすのではなくそこにあるものをそのままに受け入れる、かどうかは読者次第だが少なくとも王国はそういう物資を輸入したがっている。

 王国は鉛筆のようだ、とはさっき書いた。削れていってるからだ。しかるに鉛が入ってない。この詩のどこを見渡しても国民のいる様子がないのだ。鉛のない鉛筆などもはや鉛でも筆でもなくただの木の枝だ。紙に書きたいが枝しかないとすれば土に書けとでもいうのか? このようにことごとく失われていったものがこの王国ではまるで最初から無かったかのごとく扱われている。はじめてということはつまり、途中から腐ってきたものをちょんぎって新品の部分だけを残し、それを未使用品だと主張し使用させる段階においてのはじめてである。

 とはいえそうでもしないと未使用品というものは存在しないのかもしれないというのは表現においての話だ。表現において手垢のついてないものは無きに等しいと断言してもいいだろう。よく「手垢のついた表現」という煽り方があってその煽り方が既に「手垢のついた」状態であるというのは、ナウいという表現がもはやナウくないみたいなもんだが、表現に手垢がついてないものを求めること自体がまあ不可能だ。おれは批評をするときはもちろん批評をするつもりで詩を見るんだけどこれが何度も何度も繰り返し読んでいると何がいいのか何が悪いのかさっぱりわからなくなってしまう。感覚が麻痺してしまうんだな。そりゃあアナタ有線で何度も同じJ-POPのはしくれを聴かされていればボチボチな感じに聴こえてきますわよ。そういうわけで、最初読んだときにあちこちに釘を刺して回るような、詳しくいえば最初のフィーリングを脳味噌のあっちこっちにペッと吐いておくようなことをできるだけするように心がけている。その結果似ているといわざるを得なかったのは桐原 真の『早朝』と銀狼の『時間に線を引く』であった。こういうことを書くのは別に取り立てていっしょくたにしようというわけではないんだけどこうやってまとめて批評をしているときは多少内容がかぶってくる恐れがあっておれがそれに気付かない場合が多いので先に断っておくといった次第で、まあ似ているとおれが不便なだけであって詩人じたいは一向にかまわず書いてもらえばよろしいんでございますけど、と書いていて気付いたのでまずその似ている部分の雰囲気からちょっと書いていこうか。

 にんげんというのは! と書くと何だか大げさなのでちょっとヘコヘコしながら書いていきたいけれども、えー、にんげんというのは完成されていたくない欲求があるよね病気になりたい症候群みたいな。にんげんだもの云々でよくいわれるように、人間は完全ではない=失敗してこそ人間らしい、みたいな観念をスループットして出てきたかどうかは知ったことではないけどそういう観念に犯された人間がネタ的にも染みついている。だからぁー、規律正しい連として各々存在し空行は何行かに一度やって来るよりはむしろ外れていたいわけで、たとえば書き言葉なんてものにどもりは無いわけで。ところが実際は考えてから書くはずの書き言葉の中に意図して話し言葉のツマリやらドモリやらカミカミがあるわけでギャッハー、みたいな感じでー、それらを空白や読点を駆使して書くというより描くわけである。それがリーディングへの接近であるのかどうかはリーディングをやらないんでわからないんだけどおれにはどうもヴィジュアル的に使用しているだけのように見えて困る。だから句点はどうしてつかわないのかと、これは前にも書いた気がするので書かないけど。

 まあ相田みつをといい加減になれ合ったような文章はここまでにしておいて。さて、どうだろうか? 桐原 真の『早朝』のことだが。標準語に対して、大阪弁は流麗であるけれども文字にしてみると妙な感覚を覚えるものだけど、さてさてどうだろうか。発音的な言語世界から忠実に移植してきた彼の空白や読点は。彼は空白ですら全角と半角を使い分けているようだ。彼は歩いている。彼は彼の所有したくなくて別物であるところの場所を歩いている。しっかり歩けているか? 酔っぱらっているのか? 千鳥足と決めつけるのは早計だがずいぶんと彼のステップは淫らである。町から機械工業の風景を抜けて抽象なるものに向かって歩く、夜露のごとき光の反射や拡散を手すりにして横断を試みる早朝に彼は彼の町を顧みない。それは成功している。にんげん的な歩行、それは成功している。

 ということであれだ、句点を使わないことというよりむしろ読点を使う意味、どうして読点にはそんなに人気があるかというかそれはおれの目にするものがたまたまそうなのかもしれないがともかくその話題に関して。文章に、おける、読点の、働きとは、このような、もので、句点は。おおよそ。これぐらいの。働きを。する。読点は踏みとどまりながらも次の文章次の言語次の子音につながりを残すが句点はそれらいっさいを休止させてしまう。読点には呼吸を感じるが句点には呼吸を感じない。た、し、か、に、読点は生きていて、た。し。か。に。句点は死んでいる。読点の方はうっとうしい生々しさがあるが、句点の方はああしてみるとまるでロボットかなにかのようだ。読点を意欲的に使う詩人は詩を呼吸させたいのかもしれない。あるいは詩の生にみずからの生を重ねているのかもネ。

 以上をふまえれば銀狼の詩、銀狼の『時間に線を引く』も生きていると判断できるわけだ。さて内容がかぶってくるわけだが、彼の詩の生、人間性、というものは多少愉快犯的なものだ。つまり彼の読点のイジメ方とでもいうのかな。空白読点空白のような感じのような書き方で読点をことさらに喘がせているわけで、ふふっ、読点まで丸見えだよ……。何を書いているんだ。まあ実際読点が喘いでいるというよりは読者が喘ぐわけなんですが。前置き的な部分は前のかぶってるところで結構やってるので重複して書くのもアレなので中身にぶっこんでまいるけれども、線を引くとはつまり筆記用具でやるわけでここで最初に紹介した作品の話題ともリンクしあうわけでリンクというのはまあ感応ってことでね、しかじか、クレヨンが消しゴムで消せたかどうかは、最近深夜のテレビショッピングでクレヨンを消しまくる洗剤のことを見てから全然思い出せないが、あるいはそれでなくたって水彩であるとか油彩であるとか、ともかく筆記する用具と彼とがことごとく感応し合い筆記が彼の中に転移してきて行為を行為させているのだとしたら、それは夢を夢見るように、乙女のようにそれは、羊水という字面のイメージをただ羊水しているだけであり、神秘的であるところの非神秘的状況、ただならぬ状態、まさしく線引きするところの線の真上、それらが結局彼を読点の中で喘がせているんだ。一番喘いでいるのは彼なのだ。畢竟彼は読点しか読点しておらず、点は書けても線は書けずじまい、どころか、永遠に書けずに時間の流入を許し憎悪を受け入れる器になる少年は神話になる。

 というか時間の流入を食い止める術などないのであった。線を引くことでしか抵抗できないボクラは無力であった。もちろん時間が止まっていることにこしたことはないがそれが無理だから、もし時間が止まっていてずっと生きているとしたら頭がおかしくなってしまうよとか諦めを言うわけでその諦めを言う間にも時間はカッポカッポ流れているわけで不毛なことこの上ない。今猿人『イソップの詩法』はその不毛さに言及した詩である。詩である。詩である。詩であると提示されているからには詩であるんだけどどうにもこうにも説明が多過ぎる。一つのことを説明するべく言葉を尽くしている様はまるで数学の問題でも見ているような気分だ。彼の言いたいこと書きたいことは分かるのだが分かりすぎる。詩でないとは言わないが多くのひとが詩であると感じるところとは別のところにこの作品はある。再度書くが詩でないとは言わない。けれども過剰な説明で読み手に考える余地を与えないのは詩としてかなり損をしていると言わざるを得ない。なぜこういう書き方なのかというと先にポイントビューワーを見てしまったからだが、受けない技術的な理由というのはひとえに彼の説明過多な部分にある。読者はもう少し遊ばせておいた方がお互いのためにいいしめんどくさくもないと、まあ個人的には思うわけだね。詩を作る論理なんていろいろありましょうがね。

 本作品はイソップだかおとぎ話だかになぞらえて死ぬこと生きることに関して掘り下げようとする意図が、そういった過多気味な説明によってガンガン伝わってくる。ウサギとカメ、カメといえば浦島太郎も時間や死に接近するのだがその辺はむしろ普遍的な昔話として避けたかったシーンなのだろうか、ウサギとカメはのろいかはやいかだけでどちらかというと競争社会において各人が心に留めておくことを認識させるものだけどその辺を時間的な観念に捕らえ直してどうのこうのというよりは括弧のなかの文章の方が生きているのだから目一杯活かせば良かったのにというのはまたも技術論である。時間や死に接近することは生きている限り何度でもやや継続的に起こりうるのであって浦島太郎もいい話だか悪い話だか分からないけどジジイになるという点では甚だしく時間や死に接近する。実は竜宮周辺の海こそ生命の生活圏であり、ウサギもカメもにんげんも最後は海辺に打ち上げられるとしたら、ひとり海岸に立ってそれを眺めているなどとは考えたくもない。ましてや打ち上げられるそれらが日々の食料であり細々と生活を続け夢想を巡らしまた漂着物を貪り満腹になってふと砂浜を見れば残っているのはじぶんの足跡ばかりなどとは。いやいや、すべては比喩であってほしいものだ。


散文(批評随筆小説等) 批ギ いと/桐原/銀狼/今猿 Copyright 黒川排除 (oldsoup) 2006-01-25 03:06:38
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