名作は天然である
岡部淳太郎
いきなり断言してしまうが、名作とは天然である。隅から隅まで計算しつくして書かれたものは、実は名作の名に値しない。何だか自分でも辟易するほど古典的な考え方でいやだなと思うのだが、いろいろ考えていくと、結局そこにたどりつかざるを得ない。名作とは、考え出してつくり出すものではなく、天然温泉のように、ぽっと沸いて出て来るものである。または、空から降って来ると言ってもいい。
しかし、いつもそんなふうに沸いて出たり降って来たりするものでもない。そのような瞬間はごく稀である。だからこそ、名作は名作なのだ。世の中で書かれる詩がどれもこれも名作だらけなんてことは、確率的に言ってもあり得ないし、推敲を重ねれば必ず名作になるかといえば、そんなこともないだろうと思う。努力至上主義なんてものは、僕は嫌いだ。努力すれば必ず名作が書けるのなら別に苦労はしない。努力さえすればいいなんて、逆に言えばものすごく楽なことではないだろうか。
時として、努力の及ばないところに名作はある。別に僕は、推敲などの努力を否定しているわけではない。詩を書きつづけていこうとするには、日々の研鑽、たゆまぬ努力が必要なのだと、一方では思う。そうやって努力を重ねることで、感受性のアンテナ(これも古典的な言い方でいやだが、まあ仕方ない)が研ぎ澄まされ、詩が降りて来る瞬間をつかまえやすくなるのだと思う。
考えてみれば、現在までメジャーな存在として一般の人々の間にも名前が浸透している詩人たちは、そのほとんどがいわゆる「天然詩人」なのではないだろうか。宮澤賢治など、どう見たって天然だと思うのだが、いかがであろうか。さらに言えば、一般の人々の間で、近代詩の詩人たちの方が戦後の現代詩の詩人たちよりも受け入れられているのは(学校教育の問題など、他にも要因はいくつか考えられるが)、近代詩の方が、現代詩よりも「天然詩人」が多く含まれているからだと思う。一般の人々にとっては、天然の詩の方がより受け入れやすいのだ。また、近代詩の中でも、モダニズム系の詩人たちが四季派などの詩人たちよりも知名度が低いのは、彼等が四季派の詩人たちなどに比べれば天然含有度が低いように見える(少なくとも一般の人からはそう見える)からではないかと思える。それと、近代詩は多少知っているけど現代詩はあまり知らないという人の中には、現代詩は頭で書かれていて心がないなどと誤解している人もいるかもしれないので、いちおう言っておくと、現代詩のわりと初期の詩には、天然の詩がまだまだあったのではないかと思う。田村隆一や吉岡実の初期の詩など、僕はけっこう天然だと思うのだが。だからこそ、田村の『四千の日と夜』や吉岡の『僧侶』などは、名作として語り継がれているのではないかと思う。ここまで書いて思いついたのだが、六〇年代ぐらいまでは、天然の詩が詩壇に入りこむ余地が多少残されていたように思える。吉増剛造の『出発』『黄金詩篇』などもけっこう天然に見える。これらの詩人たちは、天然の詩を書くことが出来なくなったからこそ、後年になって(天然の詩を諦めて)、努力で詩を書くようになったのではないだろうか(田村隆一の場合は、あまり努力しているようには見えない。むしろ、自分が気楽に書けるスタイルを見つけたので、その中に安住しているという感じを受ける)。
何を言いたいのか、自分でもよくわからなくなってきているみたいだ。だが、僕が以前言ったことと矛盾はしていないと思う。以前書いた「詩を読まない詩人への手紙」の中で、僕は他人の詩を読むことの重要性を説いたが、それを「努力の重要さ」と受け取った人も、もしかしたらいたかもしれない。努力なしに名作が生まれることはままあるかもしれないが、だからといって、努力を否定しているわけではない。ひとりの詩人が書く詩がすべて名作だなどということはありえないのだから、全体のクオリティを上げるためにも、努力は必要だろう。そうした努力の積み重ねが、名作を生み出しやすい状況をつくってくれるかもしれない。
ここで述べたことは、僕程度の頭の弱い人間が思いついた戯言に過ぎないので、別に気にする必要はない。名作は天然であり、そうした天然の詩を生み出しやすい状況を整えるためにも、それなりの努力が必要ではないかというだけである。何だか同じことを繰り返しているだけの、見苦しい文章になってきているみたいで、お恥ずかしい限りである。いまの僕は、次に天然の詩が降りて来る瞬間をひたすら待ちかまえているところだ。そんな瞬間はめったに訪れるものではないのは、重々承知の上ではあるのだが。
(二〇〇五年十二月)